■山中地区の石造物(3)
今回は、諏訪神社下の相撲土俵脇にある石造物を取り上げます。
この石造物は、元々山中観音堂にありましたが、観音堂の移設で諏訪神社下に移されました。造られたのは、江戸時代の1822年です。この頃というと清水次郎長や勝海舟が生まれた辺りです。激動の幕末より少し前です。供養塔には、次の文字が刻まれています。
正面:供養塔
右面:文政五年仲秋建立 俗名藤島甚助
左面:山中長池平野内野忍草 五ケ村角力中 世話人山中若者
藤島甚助の供養塔であることが分かります。白御影石で高さ140cm近くあります。この当時の一般の墓石と比べても格段に大きくしっかりした作りです。この当時、村内にこのような類例は余り見ません。これはどういうことでしょうか。
藤島甚助という人物は、相撲の横綱貴乃花・若乃花とつながりのある藤島部屋の親方で初代は藤島甚八、2~7代目親方の四股名が藤島甚助です。ここに刻まれた藤島甚助は3代目で郡内出身です。相撲は、江戸時代の庶民の人気を歌舞伎と二分する程のものでした。特に谷風、小野川、雷電といった力士が出、11代将軍家斉・12代将軍家慶の上覧相撲が行われ相撲人気が沸騰します。また、江戸のみならず地方においても巡業が行われ、各地の若者が勇んで参加しました。供養塔に山中・長池・平野・内野・忍草の若者という文字が見え、山中湖や忍野地域でも相撲熱がすごかったことが分かります。富士吉田市の新倉浅間神社でも藤島部屋の巡業が行われた記録が残っています。そのような中で御殿場市西田中の八幡神社の巡業で相撲取りが亡くなったという伝承と墓があります。八幡神社の墓石は、実悟栄真信士と刻まれ文化12年(1812年)藤島門弟中の建立のものです。東京文京区の海蔵寺にも同人の墓があります。山中の藤島甚助供養塔と同じ人を供養したものと思われます。
この頃、各部屋にはシマというものを持っていました。これは、相撲取りを希望する若者はどの部屋に入るか、住んでいる地域ごとに決まっていました。その中で各部屋の地方巡業も行われたと思われます。富士北麓から御殿場を中心とする御厨(みくりや)地区は、藤島部屋のシマでした。御厨地区では、藤島部屋に入門する若者が多かったと言われています。富士吉田の北口浅間神社脇の扶桑教の境内にも明治43年建立の富士嶋門人力士碇綱(上吉田出身力士)の碑が残っています。藤島部屋のシマは明治が終わろうとしている時期にも有効だったことを窺わせます。御殿場や富士吉田の墓石や碑と比べても山中の供養塔は立派なものです。この事から、史料が残っていないのではっきりしたことは言えませんが、山中湖でも相撲熱は熱く、日常から江戸時代の山中湖の若者男子は相撲に打ち込み体を鍛えていたのではないでしょうか。
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