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時の扉を開く~史跡が語る各務原~(1)

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鵜沼羽場町にある「坊の塚古墳」が、国指定史跡になる見込みです。このほか、市内にはさまざまな史跡があります。今回は、これらの調査や研究で明らかになった「坊の塚古墳」、「中世の鵜沼」、「関ヶ原の戦いと各務原」について紹介します。

■坊の塚古墳、国史跡指定へ
◆歴史的価値が明らかに
史跡とは、貝塚、古墳、都城跡、城跡、旧宅など、遺跡のことを指します。これらの史跡は、国、都道府県、市町村という行政単位で文化財に指定され、保存や公開が行われています。
県指定の史跡である坊の塚古墳は、6度の発掘調査で正確な形状や規模が明らかとなり、日本の歴史を理解するうえで重要な学術的価値をもつ史跡であることがわかりました。そこで市は、国史跡指定に向けて、これらの調査結果をまとめ、国に報告しました。

◆国指定の史跡へ
6月24日、国の文化審議会が文部科学大臣へ、坊の塚古墳の国史跡指定を答申。9月ごろ、官報告示によって、坊の塚古墳が国指定の史跡になる見込みです。国指定の史跡になると、文化庁の監修のもとで保存され、後世に引き継がれていきます。

◆出土遺物を展示中
坊の塚古墳の国史跡指定の答申を受け、埋蔵文化財調査センター(那加門前町3 中央図書館3階)では、坊の塚古墳の出土遺物を展示しています。

◇坊の塚古墳データ
・形状と年代
墳長120mの前方後円墳で市内最大、県下2番目、東海三県で6番目の規模。出土した円筒埴輪(はにわ)の型式から、4世紀後葉(古墳時代の前期末に相当する年代)と推定される。

・墳丘構造
前方後円墳の中でも、上位の規格といわれる三段築成。墳丘各段の勾配は約30度ある。葺(ふき)石が斜面に張られ、幅2・5~3mの平らな面が段間を一周するなど、墳丘斜面の崩落を防ぐ工夫がなされている。

・埋葬施設
竪穴式石室で、板状に割れた小石を積み上げて四方の壁を作り、5枚の大きな天井石で封鎖されていた。棺(ひつぎ)は木製と推定。石室は、墳丘の中でも一番高い後円部の中央に埋設され、石室の上部は壺形土器で囲まれていた。

■市学芸員による徹底解説
美濃地域におけるヤマト王権の政策を知る上で、重要な「坊の塚古墳」。市学芸員が、その価値を解説します。

◇ヤマト王権との関わり
全国の有力者の墓として採用された前方後円墳。同じ形の古墳が各地で見られることは、小国を統一する王権が誕生したことを意味します。そしてその中心は近畿地方の連合勢力「ヤマト王権」と考えられています。坊の塚古墳も前方後円墳であり、各務原市域がヤマト王権の連合下に置かれたと考えられます。また、築成段や葺石などに畿内の仕様が採用されており、設計から施工までをヤマト王権が支援したと考えられます。

◇尊重された地域文化
通常、埋葬施設の周りには器財埴輪(器物を模した盾、衣蓋(きぬがさ)、甲胄(かっちゅう)・靭(じん)・鞆(とも)・舟などの埴輪)が並べられますが、坊の塚古墳には壺形土器が並べられています。これは、壺を重んじるこの地域の土器文化が採用されたためと思われます。ヤマト王権は、各務原市域の在来勢力(地域首長)を高く評価し、地域の文化を取り入れながら築造させたことになります。

◇ヤマト王権の地方政策
古墳築造の背景には、ヤマト王権の地方政策があります。坊の塚古墳のある河岸段丘の崖上からは、木曽川を生かした水上交通の要衝、鵜沼東部地域が一望できます。また、反対側から見れば、崖上の大きな坊の塚古墳はヤマト王権に従う強い権力の存在を主張します。
このように列島各地では、主要河川の流域や交通の要衝に地域首長の前方後円墳が多く築かれています。その理由はヤマト王権が河川交通を重要視し、掌握しようとしたためと考えられます。

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