この地域にあって身近に親しまれている山や、はるかに望む山々について、まつわる歴史や文化を紹介します。
■富士山(ふじさん)
標高357М
この国を代表する霊峰、富士山の名を冠した山が、山之上町北部にあることをご存じですか。「山之上富士山」(国土地理院発行の地図では「富士山」と記載)と呼ばれるこの山は、特に三和方面から眺めると線対称の輪郭が際立つ美しい山で、江戸時代、臨済宗の僧であった白隠慧鶴(はくいんえかく)(白隠禅師:1685~1768年)が、岩滝山(いわたきやま)での修行の時に眺めていた山とされ、山頂の富士神社には白隠が記した「濃陽士富山記(のうようふじさんき)」(市指定有形文化財)が納められていました。
これは白隠の最初期の書であることのほか、修行を援助した鹿野善兵衛(しかのぜんべえ)から聞いた山之上富士山の由来が記されていることにも注目です。内容によると、富士山の信仰者だった善兵衛の先祖は、年老いて再びその霊場に参詣できないことを憂いていたところ、夢でお告げを受け、目を覚ますと手には金色の仏像が輝いていたそうです。先祖は歓喜して村に帰ると、山頂に祠(ほこら)を建ててそれをまつり、持ち帰った小松を植えて、その山を「富士山」と名付けました。それ以来、村人はこの山に祈りを捧げて大切にしてきたようです。この話がいかに白隠に大きな衝撃を与えたかは、文末の「戦慄(せんりつ)して書す」という結びから想像できます。それは、白隠の生まれの駿河国原宿(するがのくにはらしゅく)(現静岡県沼津市)は富士山の裾野にあり、宝永4(1707)年に起きた大噴火の経験から、白隠は故郷と修行の地それぞれの富士山を重ね合わせ、その霊威に恐怖する一方で、崇敬の念を感じていたからでしょう。
ここで白隠は山之上富士山の教えを改めて村人に説き、その地に再び信仰を根付かせました。白隠はこの富士の名を「普慈(ふじ)」とも表現しています。本家の十分の一にも満たないこの富士山は、それに引けを取らないほど深い慈悲によって、広く人々を照らしてきたのです。
▽参考文献
・『白隠「濃陽富士山記」について(荒川元暉著:1993年)』
・『展示図録「まちのいいものよいところ-山之上-展」(美濃加茂市民ミュージアム:2017年)』
・『展示図録「墨痕に咲う—美濃の禅画の世界白隠と仙厓と—」(美濃加茂市民ミュージアム:2022年)』
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