今回は、市制施行70周年を機に、元市長、そして元職員でもある川合良樹さんをお迎えして職員として経験した「美濃加茂市の誕生」や市長として市の舵取りをした経験を振り返りながら市民の皆さんに伝えたいことなどについて、藤井浩人市長がお話を聞きました。
案内役は、美濃加茂市民ミュージアムの可児光生(かにみつお)館長が務めました。
・元美濃加茂市長(歴代5人目) 川合 良樹(かわいよしき)さん
・美濃加茂市長 藤井 浩人(ふじいひろと)
可児:川合さんは、70年前の「昭和の大合併」による市の誕生を、職員の立場で経験されました。当時を振り返り、印象に残っていることをお聞かせください。
川合:高校を卒業して、昭和26年から蜂屋村役場に勤め、その3年後の昭和29年に美濃加茂市が誕生しました。業務として合併には直接携わってはいませんでしたが、当時の各町村にもそれぞれの事情があり、住民の中にも賛成、反対は当然あって、市の誕生までの道のりは平坦なものではありませんでした。
合併前の太田町の町長であり、28歳の若さで初代市長となられた渡辺榮一(わたなべえいいち)さんは、その難しい局面をよくまとめられ、今の市の礎(いしずえ)を築かれたと思います。政治的な手腕も素晴らしかったですが、旧町村各地で開催された盆踊り全部に参加して地域の人たちと一緒に踊るなど、住民の輪の中に積極的に入っていく姿勢が、青年団など若い人たちを動かし、市長を中心とした市としての一体感が着実に育っていったと思います。
各地域の皆さんも、市の誕生を盛り上げてくれていました。伊深地区では、歴史的な甲冑(かっちゅう)を借りて立派な武者行列をされたことなど、よく覚えています。
可児:美濃加茂市という名前になった経緯や由来について、70年が経過し、知らない人も増えてきたかと思いますので、改めて川合さんからお話を聞かせてください。
川合:当時、合併が進む以前の加茂郡は非常に広く、西加茂、東加茂と分かれ、青年団を中心に、さまざまな行事が行われていましたが、その中心は太田町でした。そのため、「太田市」にしようという話も出ていたと思いますが、「加茂」というのは、古くからこの地域を総称する地名であり、歴史的な理由はもちろん、地域の皆さんの愛着が非常に強いものだったので「加茂市」で申請をする準備を進めていました。しかし、新潟県に同じ名前の市が少し前にできたため、この地方が美濃国と呼ばれていたことから「美濃」をつけて「美濃加茂市」とした、と聞いています。
可児:市の歴史の中で、川合さんは市の職員として約31年、渡辺博万(わたなべひろかず)市長を支える助役として約8年、そして平成5年9月からは5人目の市長として12年、計約51年もの間、市政を支えてこられました。この歴史の中で、まずは職員として思い出に残っている事業やエピソードなどを伺いたいと思います。
川合:昭和43年に発生した「8・17災害」では、三和町を中心に大きな被害があり、7人の市民が亡くなられました。飛騨川上流で発生した「飛騨川バス転落事故」でもさらに多くの人が亡くなり、事故のご遺体は当時市にあった産業会館(現在の太田交流センターあたり)に運ばれました。当時私は総務課の管財係長で、その管理を担当したことは忘れられないつらい記憶です。
それから、昭和58年に発生した「9・28災害」ですね。木曽川の氾濫により、市役所を含めた市内の広い範囲が冠水し、甚大な被害がでました。当時は秘書課長として市役所におり、総務課長と共に必死の思いで災害対応にあたりました。
水が引いた後も、とにかく全職員で復旧にあたりました。あの水害を機に、木曽川は堤防が強化され、内水対策でポンプも設置されました。今も新丸山ダムの建設が進められています。防災・治水に関する事業は、市にとって重要なものであることを改めてこの場でお伝えしたいと思います。
藤井:数多いご経験の中で、二つの大きな災害に関するお話をいただきましたが、そうした防災対策のおかげで、この40年、私たちの世代は大きな災害を経験することなく、過ごすことができています。
その反面、災害を経験していない人たちが増えてきています。先ほどの「美濃加茂市の名前の由来」なども含め、私自身も川合さんのお話から学ぶことが多く、先人たちの思いやご苦労されたことを、後世に伝えていくことはとても大切だと改めて強く思いました。
みのかも文化の森には、こうした市の歴史などを子どもたちが学ぶ場所があり、学校の授業でも活用してもらっていますが、70周年の節目にぜひ大人の皆さんにも訪れていただき、市の歴史を多くの方に振り返っていただきたいですね。
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