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特集 第20回 坪内逍遙大賞(1)

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岐阜県美濃加茂市

美濃加茂市が生んだ日本近代文学の先駆者である坪内逍遙(つぼうちしょうよう)。
逍遙を顕彰することを目的とした「第20回坪内逍遙大賞」に狂言師の野のむらまんさい村萬斎氏が選ばれました。
同大賞は、逍遙の功績を称え市民文化の向上を図るため、市制40周年を記念して平成6年度に制定したもので、平成19年4月に早稲田大学と「文化交流に関する協定」を締結してからは、美濃加茂市の「坪内逍遙大賞」と「早稲田大学坪内逍遙大賞」を交互に隔年で実施しています。
今回の特集では、美濃加茂の偉人「坪内逍遙」と「坪内逍遙大賞」について紹介します。

■美濃加茂と逍遙
逍遙が生まれたのは、「安政の大嶽」や「横浜港開港」など、日本中の何もかもが新しく生まれ変わろうとした幕末の安政6(1859)年5月22日。「尾張藩太田代官所」(現在の太田小学校敷地内)で尾張藩士の息子として生まれ「勇蔵(ゆうぞう)」と名付けられました。
幼少のころの逍遙は、紙に人物や動物を描き、色を塗るのがとても好きで、「未(ひつじ)生まれの紙食い虫」と家族から呼ばれていたそうです。また、木曽川で水遊びをしたり、深田の天神神社境内にあった椿(つばき)の実で「木の実振りっこ」という遊びに夢中になったりしていたようです。
元治元(1864)年には、尊王攘夷(そんのうじょうい)(※1)を唱えて挙兵した武田耕雲斎(たけだこううんさい)(※2)率いる天狗(てんぐ)党が太田宿を通過。宿場の煙草(たばこ)屋の店先から、恐々とその一行の通過を見ていた幼い逍遙に、年配の武士が近寄り、「えらくなれよ」と言葉を掛けたと、後に逍遙はその時の思い出を語っています。
(※1)天皇を敬い、異国の脅威を打ち払おうとする思想・運動
(※2)幕末の人物。水戸藩の天狗党首領

■若き日の逍遙
明治2年、逍遙は名古屋へ移住後、大惣(おおそう)(大野屋惣八(おおのやそうはち))という貸本屋へ通いました。晩年になっても大惣のことは夢に見るほどで、大惣は心の故郷であったと懐古しています。また、母や姉の影響で観劇にも興味を持ち、明治という新時代に、続々と名古屋にできた劇場へ出掛け、後に生涯をかけて取り組むこととなる「演劇」に深い感銘を受けました。
明治5年、逍遙は愛知英語学校へ入学。ジェスチャー入りの朗読法を学んだり、シェイクスピアの講義を受けたりしました。
明治9年には、県の選抜生として上京し、東京開成学校(現在の東京大学)に入学しますが、学年試験に不合格となり給費生資格を失ってしまいます。そこで、生活費と学費を稼ぐため、私塾を開いて学生を預かるようになりました。このときの経験が「教育者逍遙」としての基礎を作ったのかも知れません。その後、明治16年に東京大学を無事に卒業して専攻学科の学士号を取得し、文学士となりました。

◎勇蔵から雄蔵、逍遙へ
逍遙は「勇蔵」と名付けられましたが、内気で弱気な性格だったので、自分と掛け離れた性格の「勇」の字を嫌い、後に「雄蔵」と改名しています。
また、後に名乗る「逍遙」とは「荘子」の中の句から取りました。逍遙とはぶらぶら歩くという意味です。

■教育者としての顔
明治15年、大隈重信(おおくましげのぶ)や高田早苗(たかたさなえ)らによって、東京専門学校(現早稲田大学)が創設され、逍遙は翌年から講師として外国史、憲法論を担当。明治29年には、早稲田中学(現在の早稲田中学校・高等学校)の創設に参加し、教頭(のち校長)として開校に尽力します。早稲田中学校時代は、修身(道徳教育)と英語を教えました。
明治23年、早稲田大学に文学科が設立され、逍遙はその中心としてシェイクスピアをはじめ、英文学や欧米劇作家の研究や講義をします。そして、昭和2年、大隈講堂での公開記念講義「リヤ王」を最後に大学を去りました。

◆逍遙とウィリアム・シェイクスピア
▽ウィリアム・シェイクスピア
William Shakespeare(1564-1616)
イングランドの劇作家、詩人。イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物で、卓越した人間観察眼からなる内面の心理描写により、最も優れた英文学の作家とも言われています。

ウィリアム・シェイクスピアはイギリス生まれの劇作家であり、詩人でもありました。シェイクスピアの作品は明治初期に輸入され、日本の文学史、芸術史に大きな影響を与えました。
逍遙がシェイクスピアの文学的影響を強く受けたのは明治14年から15年ごろからで、彼の作風がそれまでの東洋文学とは異なることに大きな衝撃と感心を覚えました。明治17年、日本で初めての逐次訳(ちくじやく)『自由太刀余波鋭鋒(じゆうのたちなごりのきれあじ)』(ジュリヤス・シーザー)の刊行以来、逍遙は翻訳と研究を続け、『ハムレット』『マクベス』などを次々と手掛けました。演劇の実践活動でも文芸協会の主要演目となり、明治44年、第2次文芸協会の第1回公演には、逍遙訳の『ハムレット』全幕が上演され好評を得ました。
逍遙が『シェークスピヤ全集』40巻の個人訳を完成させたのは、昭和3年70歳のときでした。さらに昭和8年には、現代語訳を目指した『新修シェークスピヤ全集』を刊行。これまでに個人訳の全集を完成させたのは逍遙以外になく、近代日本文学界に大きな影響を与えました。

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