■宇喜多氏とは?~瀬戸内海流通との関係~
◆宇喜多氏のルーツ
宇喜多直家という人物をご存じでしょうか。享禄2年(1529年)、砥石城(といしじょう)(現在の瀬戸内市)に生まれ、幼少期に祖父と父を失い、流浪の境遇から身を立てて裸一貫から備前・美作一帯を治めた戦国大名です。岡山平野に目をつけ、岡山の地に城を築き、城下町の形成にも尽力しました。今回は、直家の生まれた宇喜多氏のルーツについて見ていきましょう。
宇喜多氏の起源に関する史料として、直家の祖父能家(よしいえ)の肖像画とその解説文があります。この肖像画は大永(だいえい)4年(1542年)、今から480年ほど前に描かれたものです。解説文によると、宇喜多氏は備前児島に漂着した百済(くだら)の王子の子孫で、本来は三宅姓であったことが書かれています。
◆宇喜多氏と瀬戸内海流通
三宅氏にはいくつかの系統がありますが、そのうち備中国連島(びっちゅうのくにつらじま)の三宅氏について説明してみましょう。現在の連島(倉敷市水島地域西北部)は丘陵地ですが、江戸時代以前は瀬戸内海に浮かぶ島でした。三宅氏は連島を拠点とする水軍でした。水軍とは、生活物資や特産品の流通を担う海運業者のことです。ときには、海賊行為も行っていました。興味深いことに、三宅氏には、薩摩国(さつまのくに)(現在の鹿児島県)まで出かけ、九州の有力御家人であった島津氏と交戦した記録が残っています。この戦いは、琉球との交易をめぐって対立したことが原因と考えられています。
宇喜多氏は、水軍として名をはせていた三宅氏を起源とすることで、備前の水軍であることを主張したのではないでしょうか。直家は吉井川の河口付近にある乙子城(おとごじょう)を手に入れたことで、吉井川流域の物流関係に大きな影響を与え、それが戦国大名へ急成長できた背景のひとつであったと考えられます。直家は、最初から経済の重要性を理解していたのです。天下人の織田信長や豊臣秀吉と共通する視点を持っていたといえます。
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