■「造山古墳」とヤマト王権の大王墓「上石津(かみいしづ)ミサンザイ古墳」
全国第4位の規模を誇る造山古墳(北区新庄下、全長350m)と、第3位の上石津ミサンザイ古墳(大阪府堺市、全長360m)。この2つの古墳に見る当時の吉備の勢力についてご紹介します。
◆古墳に見る吉備の勢力
日本では3世紀頃から、土を盛り上げた大きなお墓、古墳が築かれるようになりました。前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳など形はさまざまですが、その中で最も規模の大きい古墳が前方後円墳で、地域の代表となる人物のお墓と考えられています。
5世紀に入ると、各地で最大規模の古墳が築かれるようになり、岡山市にも全長約350mの造山古墳が造られました。一説では、この造山古墳と、履中(りちゅう)天皇陵に治定(じじょう)されている上石津ミサンザイ古墳は、出土している埴輪の特徴や墳丘の外形が似ていることから、どちらも5世紀初頭頃に築かれたとされています。興味深いのは、その当時全長300mを超える古墳はこの2つだけという点です。古墳を築くには、大量の資材や多くの労働力、墓造りに参加した人々の生活物資などが必要となります。それらを準備できた王者が、同時期の日本列島には2人いたわけです。
◆吉備の恵まれた地勢
造山古墳のある岡山市は、かつて吉備と呼ばれていました。温暖な気候で、吉井川や旭川などの大河川が潤す豊かな土壌の平野が広がり、当時の対外貿易路の中心であった瀬戸内海にも面しています。吉備には、まさにナイル川と地中海の恵みを受けたエジプト文明とよく似た条件が備わっており、それが造山古墳に反映される巨大な政治勢力を生み出したと言えるのではないでしょうか。
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