■吉備の三大巨墳 造山古墳・作山古墳・両宮山(りょうぐうざん)古墳
5世紀初頭の倭国は、吉備とヤマト王権が手を結んで統治していました。ところが、ある時からヤマト王権一強の時代になります。一体何があったのでしょうか?
◆吉備の古墳、ヤマトの古墳
吉備の三大巨墳は、造山古墳(北区新庄下、全長約350m)、総社市の作山古墳(総社市三須、全長282m)、赤磐市の両宮山古墳(赤磐市和田・穂崎、全長206m)の順に築かれました。全長の変化から分かるように、吉備の王墓はだんだんと縮小しています。同じ頃、ヤマトでは上石津(かみいしづ)ミサンザイ古墳(大阪府堺市、全長約365m)、誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(大阪府羽曳野(はびきの)市、全長425m)、その次は仁徳(じんとく)天皇陵古墳(大阪府堺市、全長525m)が築かれ、その規模は時代が進むに従って拡大していきます。
◆古墳の規模と地域の勢力
古墳の大きさは、地域の勢力や豪族の権力などを反映していると考えられています。そうすると、造山古墳以降は吉備とヤマト王権による二頭政治は解消され、ヤマト一強の時代になったと言えそうです。ただし、作山古墳と両宮山古墳は、縮小こそしたものの、当時の倭国で2番目の規模を有し、まだまだ大きな勢力を持っていました。
しかし、5世紀後半になると、吉備の王墓は全長80mほどに縮小します。日本最古の歴史書である「日本書紀」には、吉備の豪族がヤマト王権に反乱を起こすも鎮圧されたという伝承が見られます。古墳の急速な規模縮小は、そのことを反映しているのではないでしょうか。
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