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津山の歴史 あ・ら・か・る・と

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岡山県津山市

■出雲大社と中山神社
もうすぐお正月。お正月といえば初詣。初詣といえば神社でしょうか。神社は全国各地に存在し、津山市内にも数多くの神社があり、それぞれ地元の人々によって祀(まつ)られています。
ところで、津山市街地は神社が集中する、全国に類の無い珍しい地域であることはあまり知られていません。美作一宮の中山神社、同じく二宮の髙野神社、総社宮、鶴山八幡宮、津山城下町の総鎮守徳守神社という、国・県の重要文化財に指定されている巨大な本殿が、直径5キロメートルの範囲に集中しているのです。
これらの5棟の本殿はいずれも「中山造(なかやまづくり)」と呼ばれる様式の建物であることが大きな特徴です。今回はこの「中山造」について見ていきましょう。
「中山造」とはその名のとおり、中山神社を基本の形とする建築様式です。
戦国時代、天文2年(1533)に出雲(現在の島根県)の戦国大名尼子晴久(あまこはるひさ)が美作へ攻めてきた時、地元の武装集団が中山神社に立てこもったため、晴久はやむを得ず火を放ち、敵方を追い払ったと伝えられています。その26年後、永禄2年(1559)に晴久自身が再建したのが、現在も残る中山神社本殿で、「中山造」最古の例です。
「中山造」の構造は「方三間(ほうさんげん)(幅・奥行ともに柱と柱の間が三つ)、入母屋造(いりもやづくり)、妻入(つまいり)(屋根の三角形の部分が見える側に入口がある)、唐破風造(からはふづくり)の向拝(こうはい)」と説明されます(写真1)。これは島根県の出雲大社に代表される「方二間(ほうにけん)(幅・奥行ともに柱と柱の間が二つ)、切妻造(きりづまづくり)、妻入」と説明される「大社造(たいしゃづくり)」の発展形と考えられています(写真2)。
「中山造」と「大社造」の様式的な類似は、「中山神社」本殿を再建した尼子晴久が「出雲」の戦国大名であったことも関係しているのかもしれません。
残る4棟の本殿は、総社宮は明暦3年(1657)、髙野神社は寛文3年(1663)、徳守神社は寛文4年(1664)、鶴山八幡宮は寛文9年(1669)と、中山神社が再建されてから約百年後、江戸時代前半のわずか12年の間に津山藩森家二代藩主森長継により相次いで建設されました。

※写真は本紙をご確認ください。

問合せ:文化課
【電話】32-2121

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