■古墳時代の鍛冶具(かじぐ)
鍛冶とは、鉄などの金属を鍛錬(たんれん)して製品を作ることです。鍛冶に使う道具は、はさみのような鉄鉗(かなはし)や鉄鎚(かなづち)、鏨(たがね)などで、これらを「鍛冶具」といいます。市内の古墳からは、これらの鍛冶具が出土しています(写真(1))。
西吉田北1号墳(西吉田)は、一辺が11mほどの方墳(墳丘の形が四角形の古墳)で、埋葬施設は石で囲った箱式石棺です。古墳からは須恵器や鉄鉗(1)、鏨(2)、鉄鐸(てったく)(鉄板を丸め、つり下げて鳴らすもの)などが出土しました。出土した須恵器から、古墳の時期は5世紀中ごろであると分かります。また、この古墳から直線距離で900mほどの場所にある長畝山(ながうねやま)2号墳(国分寺)は、直径17mほどの円墳で、埋葬施設は木棺です。その内部から、鉄鉗(3)、鉄鎚(4)が、古墳の周溝内からは、須恵器や埴輪(はにわ)が出土しています。時期は5世紀末ごろで、西吉田北1号墳よりは新しいようです。両墳の鍛冶具の分析調査によると、これらの鍛冶具は、韓国など、大陸から持ち込まれたのではないかと考えられています。西吉田北1号墳の被葬者は、大陸から鍛冶具を持って津山に移り住んだ渡来系の鍛冶集団の一員ではないかと想像され、長畝山2号墳の被葬者は、その次の世代の可能性があります。
5世紀後半ごろは、美作地域などではまだ鉄素材の生産が行われていなかったので、外部から入手した鉄素材を使用して、これらの鍛冶具による鉄器生産が行われていました。美作地域で本格的に鉄生産が始まるのは、岡山県指定史跡の大蔵池(おおぞういけ)南製鉄遺跡(神代)や緑山遺跡(綾部)などの調査から、6世紀後半から7世紀前半ごろとされています。その後も美作地域では鉄生産が盛んに行われます。
参考に、最近まで城東地区で製造されていた作州鎌を作る際に使われていた鉄鉗の写真(写真(2))を載せています。鉄鉗にはいろいろな大きさのものがありますが、形は写真(1)の古墳時代のものとうり二つで、少なくとも鉄鉗は古墳時代から現在まで形がほとんど変わっていないことが分かります。
※写真は本紙をご確認ください。
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