■江戸時代の鶴
鶴は古くから亀とともに長寿の象徴であり、吉祥の鳥とされ、津山城は鶴山城ともいわれてきました。岡山市にある「岡山後楽園」では、江戸時代に鶴がいたことが分かっています(岡山後楽園のホームページなどより)。江戸時代の津山はどうだったのでしょうか。
正徳4年(1714)2月、神じん戸ご村(現在の神戸)に20~30羽の鶴がいたという情報が藩に入りました。すぐに藩士をその場所に派遣し、同日午後4時ごろ、吉原村(現在の鏡野町吉原)で2羽の黒鶴を仕留め、塩で加工しました。ここで出てくる「黒鶴」とは、鶴と聞いて連想しやすい、頭が赤く羽が白いタンチョウではなく、ナベツルなどの黒色の鶴だったと考えられます。江戸時代は鶴を食べることもありました。
宝暦12年(1762)には、御対面所(現在の衆楽園)の庭に鶴を放っています。御対面所の管理を担当していた武士は、この鶴に気を付けるよう命じられ、鶴が飛んで行く可能性のある近くの村へは、子どもであっても手出しをしないようにと指示が出ています。この御対面所の鶴は、近くに飛んできたのか、人が運んできたのか詳細は分かりませんが、保護の様子から、タンチョウのような鶴であった可能性が高いと考えられます。しかし、2年後には最後の1羽が犬に襲われ、御対面所から鶴はいなくなりました。また、寛政5年(1793)には、山北村(現在の山北・北園町)の道祖神辺りに鶴が5羽下りてきています。
これらの記述は、津山藩の重要事項を記した「国元日記」に出てきます。津山にも鶴は飛んできたようですが、それは日常的な出来事ではなく、珍しい事だったと考えられます。
また、江戸時代、鶴は贈答品でもありました。将軍は折々に一定の格以上の大名などに鶴を下賜しました。寛政8年の「町奉行日記」には、松江藩が拝領した鶴が津山の城下を通っている記事があります。拝領の鶴は宿場から宿場へ順に送られ、松江まで届けられました。一般的に拝領の鶴が国元に到着すると、披露などの儀式があり、調理されてその藩の上位の藩士たちに振る舞われたといわれています。
このように、古文書に出てくる「鶴」の一字だけで、江戸時代の多様な様子を、うかがい知ることができ、興味が尽きません。
問合せ:津山郷土博物館(山下)
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