■住吉神社の謎
城西重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)にある徳守神社(宮脇町)は、津山城下町建設時の手斧(ちょうな)始めとして社殿(境内にある建物の総称)が造営され、城下の総鎮守とされたことは知っている人も多いと思います。今回は、その徳守神社境内の北西隅に鎮座している摂社(本社に付属した社)住吉(すみよし)神社の謎に迫ります。
まずは、同じ境内にある徳守神社。もとは小田中にあり、天文8年(1539)に社殿が焼失した後、再建されました。その後、慶長9年(1604)に、初代津山藩主森忠政により現在の場所に移築されたと伝わっています。
ちなみに現在の徳守神社本殿は2代目で、寛文4年(1664)に2代目藩主森長継によって建設されたものです。長継は社寺の建設に非常に熱心で、徳守神社本殿のほか、妙法寺本堂(西寺町)・総社宮本殿(総社)・髙野神社本殿(二宮)・鶴山八幡宮本殿(山北)なども建設しました。
ところで、忠政が移築した本殿はどうなったのでしょうか。忠政による本殿移築の約60年後に建設された、現在の本殿。美作一国の初代藩主が移築した本殿を、簡単に取り壊すことができたのでしょうか。
ここで注目したいのが、住吉神社です。建物を詳しく見ていくと、建築の様式、蟇股(かえるまた)の輪郭や彫刻、木鼻(きばな)の渦模様から、1600年代初めごろに建てられたと考えられます。これは、忠政が徳守神社を現在の場所に「移築」したと伝えられる時期と一致します。さらに、一間社(いっけんしゃ)で2・4m×2・2mという建物の規模は、三間四方(さんげんしほう)で6m×6mの徳守神社本殿と比較すると小さいものの、八出天満宮(八出)や千代稲荷神社(山下)など、市内の他神社の本殿に匹敵します。これらの特徴から、現在の住吉神社は、忠政が「移築」ではなく実は「新築」した初代の徳守神社本殿で、2代目の本殿を新築する際、長継が北西に移動させて「住吉神社」としたと考えられないでしょうか。
同様のことは、鶴山八幡宮本殿でも見られます。鶴山八幡宮は、忠政によって現在の場所に移された後、寛文9年(1669)に長継が建て替えました。境内北西隅に1500年代後半ごろの建築とされる「薬祖(やくそ)社」が鎮座しており、これが忠政が移築した本殿ではないかと考えられています。
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