令和3年からの発掘調査では、今の林道が、明治18年に着工、同20年に完成した道路構造を良く残すものである事が分かりました。旧トンネルに取り付くアスファルト道の上方斜面、すなわち史跡追加指定の範囲内では、峠までの延長が1キロ余り、180度近いカーブを10個所ほど経て、高さにして約100キロメートルを登る道路です。
道路を断ち割った個所の観察では、現地表の腐植土や流土のすぐ下には、非常に硬く締きしめた厚さ数~20センチの砂利層で舗装された、幅3.4メートルほどの本来の路面が残っています。その下には道路の概形をなす造成土が、平らにカットされた地山の上に分厚く盛られています。道路の山側には幅・深さとも50センチ内外の石積み側溝があり、路面が中央を高く縁を低く造られている事とも連動して、雨水を円滑に流して道路を保護する役割を果たしました。
また、法面保護のため、側溝の山側石積みがそのまま立ち上る形で高さ2メートルを超える石垣が築かれている個所があります。土層の繋がりなどから、道路本体、側溝そして石垣の少なくとも根石付近は同時に造られたと判断でき、全体として大掛かりで計画的な工事であった事が分かります。
こうした入念な造りは明治19年に政府が出した国道・県道の建設マニュアルに合致したもので、この道路の当時の重要性や富国強兵政策が当地でも完徹していった様子が窺えます。また、現在に通じる近代的な道路構造が生みされている点も注目されます。
石垣の石材は花崗岩と粘板岩の二種類があり、加工の度合いや積み方も多様です。工区による使い分けとみられる個所もありますが、災害破損後の積み直しとみられる個所もあり、道路を造る時だけでなく、維持管理にも苦労の積み重ねがあった事が偲ばれます。
開削碑が残る峠のすぐ手前には東西25メートル、南北18メートルの広場があり、饅頭が名物だったという茶屋の跡とみられます。明治時代に作られた染付磁器の茶碗が出土しました。
断片的ですが中腹部では江戸時代に遡る道路跡も見つかっています。明治20年完成の道路敷によって塞がれており、路面幅は1.8~2.7メートルと狭く、路面は造成土によりますが、砂利舗装は認められず、側溝も山側でなく谷側にあります。辿るルートはより小刻みなつづら折れで、勾配も10度を超えて相当に急です。
大名行列や飛脚が行きかった江戸時代の道路が残っている事はそれ自体が重要ですが、江戸と明治の道路が実物として残って変遷が分かり、この峠道が人々の努力によって改良され利便性を高めていった歴史が窺える事が、この遺跡の価値を高めているのです。
11月に専門家の方々と一緒に志戸坂峠を登ったり、価値を学ぶイベントで、講演していただく予定です。イベントの詳細については、折込チラシをご確認ください。
智頭往来―志戸坂峠越整備活用委員会 委員長
丸亀市教育委員会文化財保存活用課 乗岡実
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