■令和6年10月11日の官報告示により「智頭往来志戸坂峠越」が正式に国史跡に指定され、村に初の国史跡が誕生しました。
今回は、古代から中世(10世紀~16世紀)の西粟倉村周辺についてご紹介したいと思います。
7世紀以降、大和政権により官道が整備されていく中で、山陽道や山陰道など七道以外にも官道が整えられ、その中に志戸坂峠も含まれていました。美作市中町で確認された中町B遺跡からは、全長約170メートルに渡って、幅約4メートルに整地され、その両横には側溝が設けられた道が確認されています。
明確な文字の記録では、承徳3(1099)年に因幡国国司の平時範が、「鹿跡御坂」(現在の志戸坂)を越えて、因幡に入国したと書かれてあります。2月14日に坂根に宿泊した時範は、翌15日、雨・雪が降る中、志戸坂峠を登っていきます。その時、束帯を着て、釼を帯び、黒毛の馬に乗っていたようです。峠を越えた峰のところで、馬を降りて南に向かって拝礼したと記事は続きます。いつの時代まで、志戸坂峠でこのような行事が行われたのかは分かりませんが、重要な道だった証拠ではないでしょうか。
12世紀以降については、今回の史跡指定に向けて調査を行いましたが、新しい史料は見つかりませんでした。その代わりに、少し時代も場所も離れてしまいますが、永享12年(1440)3月12日に室町幕府第六代将軍足利義教が発出した足利義教御判御教書を取り上げたいと思います。足利義教は、美作国高鳥庄(現在の勝央町付近)、豊国庄(現在の美作市豊国原付近)を赤松教貞に与えました。この御教書にあるとおり、美作国は、播磨国を拠点にしていた赤松氏の領国でした。当然、志戸坂を含む西粟倉村域も、赤松領国でした。しかし、すぐ隣の因幡・丹波などは山名氏の領国でしたから、国境は赤松氏と山名氏の戦闘が続く不安定な場所でした。約100年の時が経った天正6~7年(1578、79)年にかけて竹山城(美作市古町)と佐渕城(西粟倉村長尾)との間で合戦がありました。古代に国司が通った道は、戦国時代には、軍勢が通った可能性はないとは言えないのです。
このように、重要な道であった志戸坂峠は、江戸時代に入るとお殿様が通る道へと変わっていきます。このことは、次号で来見田先生にわかりやすく書いていただきます。ご期待ください。
▽足利義教御判御教書永享12年(1440)岡山県立博物館蔵
播磨・備前・美作の守護赤松氏の一族・春日部赤松氏に対して出されたもの。この翌年、足利義教は嘉吉の乱で暗殺されてしまいました。
智頭往来―志戸坂峠越保存整備活用委員会委員岡山県立博物館副館長 内池英樹
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