三陸鉄道は、令和6年4月1日に開業40周年を迎えました。「三鉄」の愛称で親しまれ、昭和59年4月1日の開業から三陸沿岸地域の住民の通勤・通学や買い物の足として、観光の手段として三陸沿岸地域をつないできました。
三陸鉄道のこれまでの歩みを振り返ります。
■誕生までの歩み
三陸に鉄道建設の声が出たのは、明治29年に発生した明治三陸大津波。復興や沿岸地域の開発などを理由に整備が進められました。
順調に整備が進められていましたが、日本国有鉄道(現在のJR)の経営状況が悪化。赤字路線の廃止が進められ、盛、宮古、久慈線の3つの路線が廃止路線に指定されました。県と関係市町村が協議した結果、第三セクターの会社を設立し、鉄道を継続する方針を決定。昭和56年11月に三陸鉄道株式会社が発足し、未開通区間の整備が進められました。
■三陸鉄道開業
昭和59年4月1日、盛―釜石をつなぐ南リアス線(36.6キロ)、宮古―久慈をつなぐ北リアス線(71.0キロ)の2つの路線を持つ鉄道会社として開業しました。
開業初日は、久慈、宮古、釜石、盛の各駅で出発式が行われ、1日で約1万3千人が乗車しました。開業した昭和59年度の乗車人員は約268万人に上ります。
開業から10年は黒字経営が続きましたが、沿岸地域の人口減少、モータリゼーションの普及なども影響し、利用者は徐々に減少。令和4年度乗車人員は61万人と、初年度の4分の1以下に減っています。
■東日本大震災が発生
平成23年3月11日、東日本大震災が発生。線路や駅舎の流失など、被災カ所は317カ所に上り、三陸鉄道は壊滅的な被害を受けました。社員は限られた人員の中で作業、安全確認を行い、震災から5日後の3月16日には陸中野田―久慈間の運行を再開。災害復興支援列車として3月中は無料で運行され、被災者やボランティアの足となりました。
国、県、市町村やクウェート国など国内外からの支援により、復旧工事が進められ、平成26年4月、震災から約3年ぶりに全線運行再開を果たしました。
■リアス線の誕生
平成31年3月、東日本大震災で大きな被害を受けたJR山田線釜石―宮古間が復旧工事を終え、JR東日本から三陸鉄道に移管。南リアス線、北リアス線と合わせ、盛から久慈まで全長163キロの「リアス線」が誕生しました。第3セクターの鉄道としては国内最長となり、三陸沿岸が一つの鉄道でつながりました。毎月約10万人が利用し、同年の乗者人員は、前年から約1・6倍に増加しました。
■台風災害とコロナの流行
リアス線が誕生した同年の10月12日から13日にかけて、台風19号(令和元年東日本台風)が東日本を襲いました。三陸鉄道は93か所が被災。全線の7割に当たる113.7キロが不通となりました。翌年3月20日には、全線が運行を再開しましたが、新型コロナウイルスが流行。団体旅行などの中止が続き、乗車人員も落ち込みました。現在は観光客も徐々に増加しています。
■さまざまな事業を展開
三陸鉄道では利用促進のために、さまざまな取り組みが行われています。
元日に車両から朝日を見る「初日の出号」は昭和61年に初運転。現在も続く人気の企画です。平成14年にはお座敷列車が導入されました。平成17年からは本格運転され、こたつに入って景色や食事を楽しむことができると、大好評。平成30年からはレトロ調の洋風こたつ列車とあわせて、毎年冬季期間に運行しています。
東日本大震災の翌年からは震災学習列車を運行しています。震災から10年以上が経過した現在も、毎年1万人以上が参加。震災の記憶を後世に伝えています。
三陸鉄道は車両を貸切ることも可能。1両単位で貸し切ることができ、1両につき、約50人まで乗車することができます。
■開業40周年記念事業
本年度は、開業40周年を記念した事業が企画されています。
4月1日には開業40周年記念列車が運行。各駅で特産品のおふるまいや出迎えが行われました。久慈駅では大漁旗を振って列車を出迎え。乗客に記念品が手渡されました。
4月13日には40周年記念式典がイーストピアみやこで開催され、鉄道写真家の中井精也さんが講演を行いました。
県内12カ所をめぐる巡回写真展も通年で開催。記念切手やグッズの販売も行われています。
■お得なキャンペーン
三陸鉄道と同い年の40歳の人が無料乗車できるキャンペーンも開催中です。
盛、宮古、久慈で秋に開催される鉄道まつりでは、当日限定の三陸鉄道乗り放題切符が400円で販売されます。
記念事業は今後も追加される予定です。開業40周年のこの機会に、三陸鉄道に乗ってみませんか。
■三陸鉄道が三陸と人のつながりを作る場に
久慈駅 畑田駅長に当時の様子や三陸鉄道への思いを伺いました。
「運行本部旅客営業部副部長」兼「久慈派出所長」兼「久慈駅長」兼「指令長」
畑田 健司さん
◇地域の足として
開業当初から大きく変わった部分は、通学に利用する高校生の数です。当時は1両に100人以上が乗車。車内では立つのが当たり前の状況でした。
開業して10年が経った頃から、利用者の減少により、観光客誘致の営業にも力を入れました。観光に訪れる人が増えると地元の人が座れなくなるといった課題もありますが、交流している様子が見え、うれしいです。
◇震災の経験
東日本大震災のときは、線路沿いを歩いて状況を確認。線路や駅が跡形もなくなったのを見たときには、復活は無理かもしれないと思いました。当時の社長の何としても動かすという声で、社員は家族の安否も分からない中、日が変わる頃まで作業。限られた人員の中で安全確認を行い、5日後には久慈―陸中野田間の運行を再開しました。
目に涙を浮かべて感謝してくれる人や列車に向かって多くの人が手を振ってくれた光景は忘れられません。
震災の翌年からは震災学習列車を運行。三陸沿岸は歴史として津波被害が残っていますが、自分事として考えることは難しく、自分たちの経験をリアルに伝えていくことが、意味のあることだと思っています。
◇三陸鉄道がつなぐ
震災や台風被害などリスタートのたびに襲った試練を乗り越え、40年間も続いてきたのは社員だけの力ではなく、地域の皆さんに支えられてきたおかげです。残してよかったと思ってもらえる鉄道にしていきたいと思っています。
鉄道は単なる交通手段ではなく、接客や地域とのふれあいを通して、地域同士や観光客をつなぐ力があります。
地元の人たちの足として始まった三陸鉄道を、三陸の各地域や住民、観光に訪れる人とをつなぐ、交流の場にしていきたいです。
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