安来市立歴史資料館の展示品を通して安来市の歴史を紹介する、このシリーズ。第11回は、広瀬藩のお話です。
1666(寛文(かんぶん)6)年2月3日松江藩主松平直政(なおまさ)が亡くなると、長男の綱隆(つなたか)が跡を継ぎました。同年4月29日、綱隆と弟の近栄(ちかよし)、隆政(たかまさ)は江戸城で四代将軍徳川家綱に謁見(えっけん)し、近栄は3万石、隆政は1万石の分知(ぶんち)(相続分割)を許可され、ここに広瀬藩と母里藩が誕生しました。
松江藩は、前の藩主であった堀尾氏、京極氏両家に後継者がいなかったため改易(かいえき)(取りつぶし)となったことから、綱隆は分家を作ることで後継者問題を解決し、本家の存続を図ったのでした。
直政は徳川家康の孫ですから、近栄はひ孫になります。直政は徳川将軍家一門として、石高は少ないながらも高い格式を与えられていました。広瀬藩も1850(嘉永(かえい)3)年には城主格に格上げされています。
広瀬藩が誕生した時、富田川は大洪水により流れを変え、かつての富田城の城下町は川底に沈んでしまいました。近栄は江戸にいたため、綱隆が広瀬に来て藩邸の場所を決め、新たな城下町づくりが始まりました。藩邸は現在の広瀬社会福祉センターのある場所から西の山裾までの範囲でした。
当時の面影は広瀬小学校の庭(鈴木家老邸跡の庭園)、広瀬社会福祉センター敷地の東端に残る土塁(どるい)跡、外堀(そとぼり)跡等に見ることができます。
歴史資料館では、広瀬藩時代に町の大年寄(おおどしより)を代々勤め、酒造業やたたら製鉄、金融業を営んだ秦(はた)家の古文書を収蔵・展示しています。
現在は、1846(弘化(こうか)3)年3月15日から6月1日まで105日かけて東国へ旅行した時の旅行記の一部を展示しています。道路改修等の慈善事業にも私財を投じた秦家は、1869(明治2)年には広瀬藩の藩士に列せられました。
問合せ:歴史資料館
【電話】32-2767
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