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全国山城サミット 開催記念連載「益田の山城探訪」(全8回)

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島根県益田市

■第6回 稲積城跡(いなづみじょうあと)
今年11月16日(土)・17日(日)に益田市において「第31回全国山城サミット益田大会」が開催されます。
これにあわせ、本連載では市内の代表的な山城を紹介します。

多田町と水分町にまたがる稲積山にもかつて山城がありました。
南北朝時代の暦応(りゃくおう)3(1340)年8月19日、南朝方の石見国司の日野邦光(くにみつ)が立て籠る稲積城を北朝方の益田兼見(かねみ)が包囲しました。
その後、同4年の1月18日夜に、南朝方の三隅兼連(みすみかねつら)(信性(しんしょう))が稲積城に救援の兵糧を運び入れようとしたため、益田兼見が袴田(はかまだ)(三宅御土居跡の南に残る字名)にかけつけ阻止しました。この兵糧運び入れが失敗したためか、2月18日夜に稲積城は陥落しました。
この頃の七尾城は、北西方向の尾根の先端が要塞化されていたと考えられており、益田川左岸の約1・5kmを隔てた範囲で北朝方(七尾城)と南朝方(稲積城)は対峙していました。
稲積山は、歴史上大きな戦乱の際に再び登場します。
幕末の幕長(ばくちょう)戦争の石州口(せきしゅうぐち)の戦いの際に、長州藩の軍隊は横田から本俣賀を経由して扇原(おうぎはら)関門を突破(このとき岸静江(きししずえ)が戦死)、益田川南側に展開し、益田川北側の萬福寺・勝達寺(しょうたつじ)・医光寺に陣取る幕府軍と激しい銃撃戦の末にこれを撃退しました。
この戦いに先立って、長州藩の軍勢を率いる大村益次郎(おおむらますじろう)は、稲積山に登って幕府軍の配置を探ったといいます。
稲積山は標高80m足らずですが、西から伸びる尾根の先端に位置し、南から北に回り込むように多田川が流れ、守りやすい地形であったと言えます。また、七尾城や益田川の北側を攻めようとする際には、益田平野を見渡したり、拠点としたりするのに抜群の地形でした。
送電鉄塔を建てる際に発掘調査が行われ、柱穴や甲冑の破片が出土しています。

問い合わせ先:市文化振興課
【電話】31-0623

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