■[毛利元就入城500年記念]大江広元と安芸毛利氏その7「不運之者」隆元の実像
歴史民俗博物館 副館長 秋本 哲治
歴史民俗博物館の庭には元就と隆元の顔出しパネルが並んでおり、来館者の記念撮影スポットになっています。
前回に引き続き、今回は毛利氏当主として元就と並び立った隆元のその後を紹介します。
◇厳島合戦と隆元
1555年、毛利元就の生涯で最も有名な厳島合戦が行われ、周防(山口県)の陶晴賢(すえはるかた)に勝利します。当初元就は大内氏を乗っ取った陶氏に協力しており、開戦には消極的でした。隆元も山口で青年期を過ごし、陶氏はもちろん、妻の実家内藤氏(大内重臣)など大内氏周辺に多くの人脈がありました。しかし、毛利氏の主権が脅かされることを危惧した隆元は、当主として陶氏との決別を主張し、元就も最終的に了承します。そうして、弟元春・隆景も含めた一族総動員体制で毛利氏は広島湾岸へ侵攻し、厳島合戦へとつながります。この勝利を機に、毛利氏は安芸の有力な領主から、戦国大名へと飛躍していきました。
・毛利隆元関係略系図
◇隆元の苦悩
戦国大名の中でも、毛利氏には書状など多くの史料が残されていることが特筆されます。その中で、隆元の書状は彼の内面をうかがい知ることのできるものが多く、極めて繊細な人間性が読み取れます。
例えば、「名将」である父元就に対して自己を「不運之者」とするような劣等感、また他家の当主となりなかなか隆元の言うことを聞かない元春・隆景に対する不満など、通常は後世に残ることのないはずのいわば「愚痴」のような記録が多数残っています。一方、自身は無器量であるが毛利家のためには命も捧げる覚悟を示し、また元就への災難は自らが身代わりになると願うなど、強い自己否定と使命感を持っていたことも知られています。
残された記録から見える、悩み苦しみながらも前に進もうとした隆元の姿は、同じ人間として現代の人々にも共感されており、最近新たなファンを増やしています。
◇隆元の急逝
1563年、佐々部(式敷)の蓮華寺で出雲尼子氏攻めの準備をしている最中、隆元は41歳で急逝します。一説には食中毒ともいわれますが、近年では病死と考えられています。出雲の陣中で訃報を知った元就は悲嘆に暮れ、自分も一緒に死んでしまいたいとまで記しています。
隆元の死後、郡山城内に菩提(ぼだい)寺として常栄寺(現在は山口市内)が開かれ、その脇が隆元墓所となりました。今年、生誕500年の隆元に改めてご注目を!
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