■大江広元と安芸毛利氏 その8 郡山城と広島城
歴史民俗博物館 副館長 秋本 哲治
昨年の毛利元就の入城500年では、郡山城や元就が改めて注目されました。では、元就と隆元の時代の後、郡山城はどうなったのでしょうか?今回は、郡山城とその後築かれた広島城の関係を紹介します。
◇輝元時代の郡山城
1571年の元就の死後も、郡山城は引き続き毛利氏の本拠として機能し、当主の輝元が家族と共に山頂に居住したことが史料からうかがえます。この時代に家臣団の城内居住がさらに進み、寺院も数多く建立されています。そして、豊臣政権下の大名となってからも輝元は郡山城内および城下の整備を継続し、中心部をそれまでの土造りから石垣の城に改修したと考えられています。このように、郡山城は西国一の大名となった毛利氏の軍事のみならず、政治・経済さらには文化の中心であったといえます。
◇広島築城と郡山城
1588年、輝元は上洛し、秀吉に謁見(えっけん)しますが、帰国直後に広島城の築城を命じます。「広島」という町は当時存在せず、太田川河口の三角州、つまり島でした。山ではない平地に総石垣の城を築くという毛利氏にとって初めての試みでしたが、1591年にはある程度整い、毛利氏の新たな本拠として輝元が入城します。それに伴い家臣団も移住し、広島城下に屋敷を構えました。一方で、郡山城も引き続き維持され、関ヶ原合戦までは毛利氏のもう一つの本拠として機能したと考えられています。
ところで、この「広島」の地名の語源は諸説ありますが、大江広元の「広」から採ったという説もその一つです。また、「えびす講」で知られる胡子神社(吉田の胡子神社が起源)の祭神の一人が大江広元でもあります。このシリーズの初回に紹介した800年前の安芸毛利氏のルーツ大江広元は、現在の広島ともつながっているのです。
◇新スタジアムとサッカー公園
今年、いよいよサンフレッチェ広島の新スタジアムが広島城跡の一角にオープンします。練習場は吉田(安芸高田市サッカー公園)で、本拠地が広島という関係は、まさに毛利氏時代の郡山城と広島城の関係をほうふつとさせます。ご存知の通り、チーム名もエンブレムも毛利氏がルーツであるサンフレッチェ広島。歴史がつないだこの縁、これからも大切にしていきたいですね。
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