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語り継ぐ平和への思い~残された家族の思い(1)~

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広島県庄原市

終戦を迎えて79年が経過し、来年には終戦から80年を迎えます。先の戦争では、多くの人が傷つき、そして多くの尊い命が失われました。その時に負った傷で、今もなお苦しんでいる人がいます。家族を亡くした遺族の悔しさ、悲しさも決して消えることはありません。
今回は、その遺族の思いをお聞きしました。皆さんも命の尊さ・平和の大切さについて考えてみましょう。

■山本 喜一(やまもと きいち)さん
昭和7年11月1日生まれ
91歳 高町

▽四郎さんの生い立ち
明治42年9月15日 誕生
昭和7年11月1日 長男・喜一さん誕生
昭和17年10月11日 広島西部第十部隊に応召
昭和18年9月11日 ビルマ第十五軍戦闘序列に編入
昭和19年5月 インパール作戦に参加
昭和19年8月7日 戦病死

■父との別れ
山本喜一さんは、昭和7年に父・四郎(しろう)さん、母・ヨシコさんの長男として、比婆郡高村(現高町)で生まれ、四郎さんが出征(しゅっせい)するまでは、祖父と2歳年下の妹、10歳年下の弟との6人家族でした。
四郎さんは大工で、当時は、四郎さんが大工仕事で稼いだお金と農業で一家は生活をしていました。
昭和16年の暮れ頃、四郎さんのもとに、当時「赤紙」といわれていた、召集令状が届けられました。9歳だった喜一さんには、赤紙が届くことが、どういうことであるかよく分からなかったそうです。
昭和17年10月、四郎さんは西部第十部隊として臨時招集され、広島市へ赴くこととなりました。
出征前、高駅近くの神社で、出征兵士のための祈願祭が行われました。当時の村長から「山本四郎君が国のために出ていきます。バンザーイ!」という三唱があり、四郎さんは「元気で出てまいります」と応え、駅に向かったそうです。
喜一さんは、四郎さんを見送るため、一緒に駅に向かいました。駅には、喜一さんら家族のほか、村長や小学生50~60人、婦人会の人、親戚など、多くの人が四郎さんの見送りに来ていたそうです。
しばらくすると、ホームに汽車が入ってきました。汽車が止まると同時に、四郎さんは「皆さん。ありがとうございました。よろしく後をお願いいたします。バンザーイ!」と言って、汽車に乗り込んだそうです。
汽車が出る前、四郎さんは「喜一よ、お前は長男だから、お母さんの面倒を頼む。兄弟で仲良くして、大きくなれよ」と言って、喜一さんの頭をなでてくれたそうです。現在、91歳となられた喜一さんが「あのお父さんの姿はいまだに忘れることができない」「『お国のために尽くすんだから元気で帰ってくるよ。また一緒に生活できるけぇのぅ』というお父さんの声が頭に残っている。やはり寂しかった」と涙ながらに話をしてくださいました。
まるで四郎さんとの別れを告げるかのように「ポー!」と汽笛が鳴り「バンザーイ!バンザーイ!」という見送りの声の中、汽車はホームを出ていきました。四郎さんは、多くの人に寄せ書きをしてもらった日の丸の旗を思う存分振り「行ってまいります」と言い、出発したそうです。
これが、喜一さんが目にした、生前の四郎さんの最後の姿となりました。
四郎さんは、広島市の宇品港から中国広東省に到着した後、独立輜重(しちょう)第三連隊(戦場で食料などの物資を輸送する部隊)に転属となり、広東付近の警備、輸送業務に従事したそうです。その後、パラオ島やニューギニアでの業務を経て、ビルマ(現ミャンマー)に入り、そこからインド北東部で行われたインパール作戦に参加しました。
この作戦は、昭和19年3月、敵対していた中国・国民党政府への連合軍による援助を遮断することなどを目的に開始されましたが、日本軍の前線への補給が続かず、失敗に終わり、撤退中、飢えと病気で多くの兵士が苦しみ、戦死・戦病死したそうです。四郎さんも米粒一つ食べられず、カエルでも、ヘビでも食べられそうなものは何でも食べて命をつないでいましたが、「アメーバ赤痢」に感染し、昭和19年8月7日、34歳の若さで亡くなりました。
四郎さんは、立ち上がることすらできないほど衰弱する中「『もう一度祖国の土を踏みたい、連れて帰ってください』『家では年寄りや妻子が待っている。もう一度会いたい』と言いながら亡くなられた」と、喜一さんは後に、復員した四郎さんの戦友に聞いたそうです。
戦時中、戦死・戦病死を伝える死亡告知書は、役場の職員が遺族へ届けていました。「役場の職員が家を訪ねてくるとすぐに、お母さんの顔色が変わったんです」と喜一さん。告知書の内容を見てはいませんが、ヨシコさんの様子から、子どもながらに四郎さんの死を悟ったそうです。
喜一さんは、叔父と2人で、広島市内の被服廠(ひふくしょう)へ四郎さんの遺骨を引き取りに行きました。僧侶から木箱が渡されたので、首に下げて家に持ち帰り、ヨシコさんに手渡しました。「ちょっと悪いけど開けてみよう」と、木箱を開けてみたそうですが、遺骨は入っておらず、四郎さんの名前の書いてある紙だけが入っていたそうです。

問合せ:総務課総務法制係
【電話】0824-73-1123

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