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語り継ぐ平和への思い~残された家族の思い(2)~

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広島県庄原市

■戦中・戦後を生き抜く
四郎さんが出征してから、家族5人での生活となりました。四郎さんの大工仕事による収入がなくなり、家族の生活は一変しました。喜一さんは「田の耕作をしていたが、肥料を買うお金がなかったため、生産高も低下し、供出をすると手元にほとんど米が残らなかった。配給も受けたが、生活は大変だった」と振り返ります。
「山・川問わず、お金を稼げることがあれば何でもやった」。祖父の体が不自由だったことから、喜一さんが家計を助けるため、学校へは行かず、仕事をしたそうです。
こうした状況の中、ヨシコさんの姉からの援助もあり、一家は何とか戦中・戦後を生き抜きました。「伯母が嫁ぎ先から定期的に仕送りをしてくれ、我々が一人前になるまで助けてくれた。本当に、神様・仏様にお会いしたようだった」。喜一さんの言葉です。

■父のゆかりの地で
喜一さんは、平成4年、ミャンマー慰霊友好親善訪問団の一員として、ミャンマーを訪れました。
訪問団は、ビルマ戦線で命を落とした人のゆかりの地で、個人慰霊祭を行っており、喜一さんは、ミャンマーのほぼ中心部に位置するマンダレー市のサガイン・ヒルという小高い丘の上で、四郎さんの慰霊祭を行いました。
慰霊祭では、喜一さんを含む23人の遺児が、花や酒、果物などを供えた後、順番に焼香をあげました。喜一さんは、順番が来ると「『お父さん!迎えに来たよ!喜一ですよ!一緒に帰りましょう!』と思わず叫んだ。何も返事はないが、魂だけは背負って帰った気がする」と四郎さんのことを思いながら、話してくださいました。

■私たちができること
今回の取材の中で、喜一さんは「私一人が遺族となったわけではない。私よりも悲しまれている人は数えきれないほどいる。戦争は二度とあってはならない」と、平和への思いを語ってくださいました。
「戦争は悲惨なものである」ということは、誰もが知っていることですが、具体的にどう悲惨なのかは、当時を経験している人に話を伺ったり、実際に現地へ行って学んだりしないと、なかなか真相を知ることはできないのではないのでしょうか。
しかし、戦後79年が経過した現在、戦争を経験した人は高齢化し、当時の様子を直接伺うことが難しくなってきています。
戦争を経験し、傷を負った人、兵士として戦場へ向かった人、今回お話を伺った山本喜一さんのように、家族を亡くした人たちの悔しい思いや悲しい思い、戦後の混乱期の中での苦労を学び、二度と同じ過ちを繰り返さないよう、戦争の記憶と平和への思いを受け継いでいくことが大切です。
これから戦後90年、100年と月日が経過していく中で、戦争の記憶が受け継がれることなく、人々に忘れ去られていくことがあってはなりません。
この記憶を風化させないためにも、私たちは平和について学び、考え、平和の尊さを後世へ語り継いでいくことが大切なのではないでしょうか。

問合せ:総務課総務法制係
【電話】0824-73-1123

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