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ふるさとふちゅう再発見

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広島県府中町

■第46回 府中が農村であった頃(6)~鹿籠新開(2)
籠新開(こごもりしんがい)は、現在の鹿籠1・2丁目、桃山1丁目の一部です。鹿籠踏切北端から東へ道が続きますが、この道から空城山(そらじょうやま)にいたる平地が鹿籠新開で、道は新開の土手に沿ったものです。『安芸府中町史』第1巻に天保(てんぽう)の頃の新開の絵図(トレース)が載せられています。一番(一ノ割)から七番(七ノ割)に地割(ちわり)され、さらに短冊形(たんざくがた)に分割されています。
鹿籠新開は貞享(じょうきょう)3(1686)年に長さ200間(けん)(約360m)の土手と樋(ひ)や石橋(いしばし)を築造しています(元文(げんぶん)5年「安芸郡府中村諸樋諸橋仕出帳(しょひしょはししだしちょう)」)。その後、正徳(しょうとく)3(1713)年に地詰(ちづめ)を行い、翌年から年貢(ねんぐ)を納めています。この時の畝数(うねすう)(面積)は7町1反18歩(約7万平方メートル)で、石高が72石3斗9升2合です。完成した土地は伊予屋(いよや)の耕作となりますが、実際は付近の農民に譲渡(じょうと)されたり小作(こさく)されていました。天保(てんぽう)9(1838)年と安政(あんせい)3(1856)年に年貢未進(みしん)(未納)に関わって小作農民と伊予屋で争議が起きています(『安芸府中町史第2巻』)。
鹿籠新開の様子は、南公民館に展示されているジオラマでよく分かります。これは平成18(2006)年に南公民館寿(こごもり)大学のみなさんが作成したものです。昭和初期の状況で、鉄道の敷設などを除いて全体像は江戸時代と変わりません。
○印の小高い山はトンコ山で、ここは御茶屋鼻(おちゃやばな)と呼ばれ、伊予屋の別宅がありました。現在は新道建設のため東側が削られました。天保年間の地図ではその東側の山を「土取場山(つちとりばやま)」と記し、干拓時の土を採取したことが考えられます。
※詳細は本紙またはPDF版をご覧下さい。
府中町文化財保護審議会委員
菅 信博

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