新御蔵(しんおくら)とは、江戸時代の初めの寛永12年(1635年)頃に城下町徳島に設けられたとされる徳島藩の米蔵です。
藩の直轄地の村々から上納された年貢米を納め、藩士の食糧米を支給しました。一般武士や足軽は、扶持米(ふちまい)と呼ばれる食糧米の支給を毎月受けたので、家臣(かしん)の暮らしを支えた役所だったのです。
徳島藩の米蔵は、この新御蔵(しんおくら)以外に、城山の東麓(とうろく)にあった北御蔵(きたおくら)(徳島中央公園のバラ園付近)と、三木郭(みきぐるわ)の南端の長御蔵(ながおくら)(旧徳島市文化センター)があり、その面積は、新御蔵(しんおくら)が1,794坪、北御蔵(きたおくら)は1,180坪、長御蔵(ながおくら)が930坪で、新御蔵(しんおくら)が最大でした。いずれも藩の米麦を保管しましたが、役割は異にしていました。長御蔵(ながおくら)は新御蔵(しんおくら)に近接し補助的に働き、北御蔵(きたおくら)は藩士から徴収した米を管理、新御蔵(しんおくら)は年貢米を収納し藩士に食糧米を支給する米蔵機能の中核を果たしたのです。
新御蔵(しんおくら)は、四方(しほう)の境に敷地を取り囲むように米蔵が設けられ、最大は奥行が約6メートル、横幅は約123メートルに及び、敷地の中央の作業空間では、その一部に役所などが設けられていました。大事な米を保管するため火気は厳禁とされ、役人が執務した役所とは充分な距離がとられていました。
殿様の米蔵だったので「御(お)」が付いて「新御蔵丁(しんおくらちょう)」の地名でしたが、明治時代となり新蔵町となりました。また、新御蔵(しんおくら)のあった場所は、現在は徳島地方裁判所などになっています。建設に伴う発掘調査では米俵に付けられた木札(きふだ)が多数発見され、米を計量し俵に納めた村役人の名前が記されていました。木札(きふだ)は責任者を明示しているようで、年貢納入の厳しさが実感されます。
問合せ:徳島城博物館
【電話】088-656-2525【FAX】088-656-2466
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