天正13(1585)年、阿波の大名となった蜂須賀家政(いえまさ)は、徳島城を築くとともにその周囲に城下町を設けました。城下町がスタートした頃、町人(ちょうにん)が住んでいたのは、内町と新町、福島町、助任町だけでした。その後、佐古町が加わります。
平和が続いた江戸前期、町には多くの商人が集まり商業活動が盛んとなりました。江戸中期、町と村の堺には、「郷町(ごうまち)」と呼ばれた新興の町が誕生しました。助任郷町(ごうまち)、佐古郷町(ごうまち)、新町川沿いの福島築地にできた福島郷町(ごうまち)、そして土佐街道沿いの二軒屋町。元禄6(1693)年では、佐古郷町(ごうまち)が112軒、助任郷町(ごうまち)29軒、福島郷町(ごうまち)は3軒で、二軒屋町は61軒でした。
二軒屋町の町名は、初めは人家が2軒しかなかったことに由来します。しかし、時代が下るにつれて家数が増え、江戸中期には約60軒、さらに江戸後期には230軒ほどの大きな町となりました。城下町徳島における新興商業地の代名詞が、二軒屋町でした。
その名前が史料に現れるのは17世紀の後半のことです。紙の専売権を持っていた紙屋町からの訴えで、二軒屋町はじめ郷町(ごうまち)での紙売買が禁止されました。この一件(いっけん)からは、城下町の外にも町場(まちば)が誕生し、藩はそれを郷町(ごうまち)として認識していたこと、郷町(ごうまち)での紙売買が既得権を有した紙屋町を脅(おびや)かすまでに成長していたことが分かります。内町などの商人は、二軒屋町などの郷町(ごうまち)の商人を競争相手と認識し始めたことでしょう。
発展著しい郷町(ごうまち)は、寛政4(1792)年に町奉行の管轄となりました。郷町(ごうまち)で興味深いのは、住民と建物は町奉行の管轄でしたが、土地は郡代管轄のままでした。これは村としてスタートしたからでした。
二軒屋町の歴史を調べていると、逞しく江戸時代を生き抜いた町の人々の活力がうかがわれます。
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