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【特集】夢を追い続けた男 十河信二(1)

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愛媛県西条市

現代社会のインフラとしてなくてはならない新幹線。
初めて走ったのは、1964年のことでした。
東海道新幹線実現の立役者は西条市長も務めた十河信二(以下、十河または信二)。
明治から昭和にかけての激動の時代に情熱と信念で、新幹線建設という夢を実現させた彼は一体どんな人物なのでしょうか。

■新幹線の生みの親 十河(そごう)信二(しんじ)(1884~1981)
新居浜市中萩出身、現西条高校卒、東京帝大法学部卒。
第2代西条市長を経て、1955年に第4代国鉄総裁に就任し、東海道新幹線の建設を実現。
西条市名誉市民第1号。享年97歳、今年は生誕140年。

■学生時代からエリート
旧制西条中学(現在の西条高校)に入学した信二。中萩から約10キロの道のりを歩いて通学しました。卒業のときには、校長先生から「お前くらいわがままで強情な人間はいな」と言われるほど、学生時代から頑固な性格でした。
卒業後は東京にある難関の一高(旧制第一高等学校)、東京帝大法学部(現在の東京大学)に進学。超エリートであった信二に田舎では花嫁候補がたくさんいましたが、2年生のときに東京音楽大学(現在の東京芸術大学)に通っていたキクと出会い、信二が一目惚れ。学生結婚しました。

■恩師後藤新平と新幹線実現の原点
初めは農商務省を目指していた信二。あるとき、鉄道院に勤めていた同郷の先輩、松木幹一郎から鉄道院総裁の後藤新平に会うように指示されました。後藤に会うと「これからは鉄道の時代。成績が5番以内になれば採用してやる」。当時、成績が真ん中くらいであった信二は猛勉強し5番以内に。後藤に認められた信二は鉄道院に入り、のちに鉄道界で活躍します。
戦前の日本はコストを理由にレールの幅が狭い線路(狭軌)が主流。しかし後藤は「大量輸送の時代には、大型機関車が必要」と線路を広く(広軌)して、物流スピードを優先させる考えを主張し、十河はその薫陶を受けます。狭軌か広軌かの論争は何度も繰り広げら
れましたが1918年、内閣総理大臣の原敬が「欧米のように長距離輸送する必要なし」と主張し、広軌案はつぶされました。
その後、突然の収賄事件をきっかけにえん罪で逮捕された信二。鉄道省をクビになり、拘留期間は97日にも及びました。親友の種田(おいた)虎雄(のちに近鉄の社長)は仕事も収入もない信二に給料の半分を渡していたとされています。
1930年には、種田の説得もあって、満鉄(南満州鉄道株式会社)の理事となり、鉄道の経営にあたりました。満州では高速機関車、通称「弾丸列車」が走っていて、それが新幹線構想のベースとなりました。

■郷土の偉人はつながっていた
松木幹一郎からの紹介で、後藤新平との関係性を強めた十河。同郷のつながりは、ほかにも。十河が日本国有鉄道(以下、国鉄)の総裁を務めたころ、同郷の後輩で近畿日本鉄道(近鉄)社長の佐伯勇が「国鉄が保有する鉄橋を使わないなら利用させてほしい」と十河の元へ直談判を行い、譲渡の了承を取り付けました。この佐伯の行動は、近鉄の悲願、ゲージ統一実現への大きな一歩となりました。
日本の歴史の中で、西条市の偉人である十河、松木、佐伯の3人は直接ないし、間接的に関わり合っていたのです。
※相関図は本紙P.3をご覧ください。
松木幹一郎は「台湾電力の父」、佐伯勇は「近鉄中興の祖」といわれています。広報さいじょう2019年6月号で紹介

■無報酬で西条市長に
1945年、西条市長を務めた十河。そのときの条件が「郷土のためなので給料はいらな
い」「国からの用があったらやめる」「誰かの反対があるならやめる」でした。わずか一年未満でしたが、河川の治水や農地造成、学校教育に力を入れ故郷の礎をつくりました。

■東京オリンピック9日前に実現!
▽71歳で国鉄総裁に就任 8年間諦めず走り続けた
1955年、国鉄で大事故が重なり窮地に陥った頃、71歳で「線路を枕に討死する覚悟」という強い意志を持って、第4代国鉄の総裁を引き受けました。高齢の十河は「博物館から引っ張り出された古機関車」と揶揄されましたが、就任当初から「広軌新幹線を建設する」という大きな夢を持っていました。
当時は飛行機や自動車の時代だという反対意見が多く、世論も冷ややかでしたが十河は諦めません。国鉄内部で広軌新幹線計画に理解を示さない技師長を更迭。優れた技術者の島秀雄をスカウトし、理解者を集めてチームを作ります。最終的には国家的課題として政府指示の形で東海道新幹線の実現が決まりました。
500キロもの距離を新しい広軌(標準軌)の線路で一挙開業させるという巨大事業は、日本の鉄道史上初の事業でした。工事費が大きく超過すると知りながら、度胸よく半分の予算として国会を通すなど国鉄を牽引し、「有法子(ユーファーズ) (なせば成る)」の精神で見事実現させました。

▽夢の超特急ひかり号
1964年10月1日、ついに東海道新幹線が開通。しかし、建設予算超過の責任を背負う形で開通前に国鉄総裁を辞任したため、テープカットに十河の姿はありませんでした。新幹線の名前は「ひかり」に決定しましたが、応募作には「そごう号」という案もたくさんあったといいます。十河がいなければ日本が世界に誇る安全で快適な新幹線の鉄道システムはなかったに違いありません。

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