■於(お)ふうの墓
天正3年(1575)長篠・設楽原の戦いで、長篠城主を務めた奥平信昌の正室といえば徳川家康の長女、亀姫です。しかし、信昌には亀姫との結婚以前に「於ふう」という婚約者がいたことをご存知でしょうか。
於ふうは、奥平氏が武田氏への従属を約束する証として甲斐国に送られた人質でした。
武田信玄の死後、信昌は武田氏を離反して徳川氏に帰参することとしたため、これに激怒した武田氏は於ふうを磔刑(たっけい)に処し、天正元年(1573)16歳の若さで亡くなってしまいます。
於ふうと信昌の過ごした奥三河の地は、今川氏の三河侵入以降、三河の松平氏(徳川)、尾張の織田氏、甲斐の武田氏ら有力大名たちの勢力争いの狭間にありました。元々奥三河の国衆であった奥平氏は大名たちのような政治的権力は持たず、大名に軍事的な協力をすることで土地の領有と自家の存続を保障されていました。
そのため、常に社会情勢の動向を伺い、力のある大名との主従関係を築くことは一族が生き抜くためには必要不可欠だったのです。
そして、天正3年の長篠城での籠城戦で武田軍の猛攻からお城を守り抜いた信昌は、徳川家康の長女である亀姫を妻として迎え入れます。
2人の間には4男1女の子宝に恵まれ、信昌は亀姫と結婚後も側室を持つことはなく、良好な夫婦関係を築きました。
戦乱の世の政治に翻弄され、於ふうを失っていた信昌は、家族を大切にし、平穏に暮らせる日を強く望んでいたことでしょう。
問合せ:長篠城址史跡保存館
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