■西洋式砲術を田原に伝えた村上範致
村上範致(のりむね)(定平(さだへい))は文化5(1808)年に現在の田原市田原町で生まれました。武芸に秀でていたこと、意志が強いことが評価され、藩主の四男で蘭学者でもあった三宅友信の近習(きんじゅう)となりました。
友信が所有する膨大な蘭学書を読む機会に恵まれ、範致は銃砲術に強い関心を抱くようになります。また、江戸を訪れた際、幕臣の江川英龍(ひでたつ)らと共に砲術の研究をするようになりました。
やがて、範致らは長崎へ赴き、優れた西洋式砲術家である高島秋帆(しゅうはん)から西洋式砲術を学びました。天保12(1841)年5月には、秋帆が徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区)で行った砲術訓練にも参加しています。この時期、蛮社(ばんしゃ)の獄(ごく)により田原で蟄居(ちっきょ)していた渡辺崋山は、範致が高島秋帆に入門したことを聞き、心から喜んだと伝わっています。
翌年、範致は田原へ戻り大砲と砲弾を鋳造(ちゅうぞう)し、次の正月には、藩主三宅康直の前で砲術を披露しました。その後、範致は田原藩へ高島流砲術を導入することに尽力するともに、藩校成章館で多くの藩士に砲術を指導しました。
やがて、江戸幕府の高島流砲術の世話役に就任しましたが、明治新政府から田原藩の大参事に任命され、再度田原に戻り田原藩の藩政を担いました。明治5年に死去し、今は蔵王霊園の墓で眠っています。
(学芸員 三宅良宜)
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