■No.111碧南の寺を巡る(4)寺の中に学校ができた その三
西端の應仁寺(おうにんじ)(油渕町)は蓮如上人(れんにょしょうにん)ゆかりの寺です。蓮如上人は、西端出身の僧侶如光(にょこう)の招きにより西端に滞在し、三河での布教活動を行われたとか。出発の日、上人は「また折があったら来よう」と別れを惜しむ村人を慰めました。西端の人は上人の再訪を待ってここを寺(道場)とし、上宮寺(じょうぐうじ)(岡崎市)の隠居所の時代を経て、江戸時代に西本願寺派に転派して寺号を得てからも、住職は置かず村が守っていました。
西端の寺は、栄願寺(えいがんじ)(吹上町)と領主の命令により半崎から札木に移転した康順寺(こうじゅんじ)、そして應仁寺の三か寺が元禄(げんろく)年間(一六八八〜一七〇三)から盛んになった蓮如忌のお参りコースでした。安政(あんせい)の大地震(一八五四頃)によって應仁寺本堂が倒れた際も村人が力を出し合い、文久(ぶんきゅう)年間(一八六一〜一八六三)に再建しました。
明治の新政府は、諸寺を合理化しようと、住職や檀家のない寺の破却を命じました。應仁寺存続の危機でした。同時期の明治五年(一八七二)に学制が発布されると西端村はすぐに應仁寺の本堂を仮校舎として郷学校(ごうがっこう)設立の願いを額田県(ぬかたけん)に出しました。太政官(だじょうかん)布告中、堂宇(どうう)等について官製でなければ人民のものとして任せるという内容があり、村はこの条項を生かして学校にしたものと思われます。寺の存続も請願しましたが、「應仁寺」は廃寺となりました。
明治七年(一八七四)愛知県は校舎新築を命じましたが、西端はその補助費で應仁寺再建時の負債を償却することが許され、旧應仁寺の建物・宝物の全てを学校管理としました。
その後、村は隣接地を買収、学校敷地とし、明治三五年(一九〇二)に校舎を新築、明治四三年(一九一〇)には石段下農地を運動場にしました(現在は油ヶ渕遊園地駐車場)。應仁寺は、昭和四〇年(一九六五)に小学校が現在地に移転するまで九〇年以上も学校とともにあったのです。
なお、應仁寺は、終戦後に浄土真宗単立寺院として届け出、現在も西端地区の寺としてにぎわっています。
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