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碧南の歴史へのいざない

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愛知県碧南市

■No.108碧南の寺を巡る(1)~新田開発の犠牲を供養する~
前浜の平等寺(びょうどうじ)は、前浜新田開発の功労者として領主にも認められた齋藤倭助(わすけ)(一七九〇〜一八五二)によって開かれた寺です。増加する新田入植者のため、倭助は領主から与えられた田畑に御堂を建立し、自ら僧となって寂照(じゃくしょう)と名乗りました。天保三年(一八三二)、東本願寺本山にお願いし、寂照山平等寺という寺になりました。
嘉永五年(一八五二)、倭助最晩年に記した「平等寺由緒(ゆいしょ)」には、前浜の開発・農地造成工事に伴って、魚・鼈(すっぽん)・蟹(かに)・蛤(はまぐり)、その他種々の魚類の数えられないほど多くの命を奪ったことは申し訳なく、下される罰も恐ろしいという趣旨の文言があります。
(原文)「海面開発ニ付魚鼈蟹蛤其外種々之魚類数億無量之命を為捨候事天命之程恐入」
文政一一年(一八二八)、遊行上人(ゆぎょうしょうにん)が巡行のため称名寺に滞在した折に、倭助は魚類追善を依頼して供養をしてもらいました。
人間が生きるために獲った魚などの供養塔を建てることは古代からあり、江戸時代以後は建立年代のわかるものも多くあります。農事のために犠牲となった虫を供養する行事は全国に残っています。しかし、新田開発による犠牲を弔うものはあまり聞きません。多くの農民を助けるためではあっても、海浜の生物の生息場所を奪い、犠牲にしたことに倭助は心を痛め深く悩んだのです。
左は、称名寺二十八世聲阿(せいあ)が上京して平等寺の由緒を碑文にすることを依頼したとする文書の一部です。前浜新田の計画から完成までの苦難や寺建立への倭助の願いと成就の運びが書かれています。
傍線部には、生物を殺して利を得るのは仏の戒めを破ることであり、このため安心の境地に至れない。新田に寺を置き、全ての生物が平等に成仏することを願い、領主(水野忠成(ただあきら))の許しにより廃寺を前浜に移し寺を建立したと記されています。

問合せ:文化財課内市史資料調査室
【電話】41-4566

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