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碧南の歴史へのいざない

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愛知県碧南市

■No.109碧南の寺を巡る(2)寺の中に学校ができた その一
明治の宗教哲学者清澤満之(きよざわまんし)ゆかりの寺として有名な浜寺町の西方寺(さいほうじ)には、建物と楼が一体となった「太鼓堂(たいこどう)」があります。幕末の文久三年(一八六三)に山門脇の太鼓楼(たいころう)が建て替えられた際、場所と構造を変えて現在の姿になりました。ここに明治四年二月二〇日(新暦一八七一年四月九日)、「新民序(しんみんじょ)」が開校しました。
「新民序」とは、明治三年(一八七〇)秋に着任した菊間藩(きくまはん)(明治維新により藩主水野侯は沼津(ぬまづ)から現在の千葉県内の菊間に移転させられた)大浜出張所の少参事服部(はっとり)純が主導して作られた学校です。三河の菊間藩管轄内における上級学校が「新民序」で、初等学校に相当するのは各村で運営すべき「新民塾(しんみんじゅく)」です。行政予算がない中で、新民塾の多くは地元有志と僧侶が協力し、寺などの施設を借りて開きました。
現在の大浜地区では、林泉寺(りんせんじ)(本郷町)に上(かみ)新民塾、称名寺(しょうみょうじ)(築山町)に下(しも)新民塾が置かれました。しかし、学校という新しい組織には多くの村民の戸惑いがあったようです。
廃藩置県の後、明治五年(一八七二)に学制頒布(がくせいはんぷ)があり、碧南市域ではその年の内に多くの郷学校(ごうがっこう)(小学校)が開校しました。現在の大浜地区だけでも新民序が大浜郷学校となり、林泉寺と称名寺の新民塾が大浜郷学校支校となりました。
「大浜郷学校便覧(びんらん)表」(明治五〜六年)には、学校の場所が西方寺境内「西方寺献堂(けんどう)」とあり、太鼓堂を一時寄付したと推測されます。また、寄宿規則も記載されていて、寄宿料が「一人一昼夜米五合(ごう)菜資一銭(せん)六厘(りん)六毛(もう)六六」とあります。生徒総数は二四一名、別の資料から、寄宿生は一〇名程いたことがわかっています。
校名変更がたびたびあり、大浜郷学校は、明治六年八月に「第五十六番小学新民学校」、明治九年(一八七六)に「中大浜学校」、明治一五年(一八八二)に「第五十四小学区第五十七番小学大浜学校」となりました。
上地区は早期に民家に移りましたが、下地区の称名寺とともに明治二〇年(一八八七)に上(かみ)・中(なか)・下(しも)の三校が合併して「大浜尋常(じんじょう)小学校」となるまで、学校教育は寺の協力の上に成り立っていました。

問合せ:文化財課内市史資料調査室
【電話】41-4566

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