文化財に親しむことを目的として毎年11月1日〜7日までの1週間は「文化財保護強調週間」です。市内には、国指定2件、県指定2件、市指定22件の指定文化財があります。これらの文化財を守るため、大切に保護し、後世に伝えていきましょう。
今回は、日常生活に身近な神社についてご紹介します。
◆神社の森は新羅から
日本には鎮守の森を始めとする社寺林、塚の木立、沖縄のウタキ等の信仰対象の森がある。弥生時代中期以降の祭殿や古墳を樹々で囲った記録はない。神社の森はどのように発生したのか?「大宝律令」の注釈書「古記」(738)には、森を伴う社殿が「国家の法を告げ知らしむ」場として利用されている。壬申の乱(672)の大海人陣営に加わった大豪族は大伴氏のみで、その後、右大臣中臣金ら八人を斬刑、左大臣蘇我赤兄(そがのあかえ)・御史大夫巨勢比等(こせのひと)らを流刑にして、大豪族の権威と権力が失墜し、律令国家が誕生した。天武・持統期の遣唐使中断の30年間に、10回の遣新羅使と25回の新羅からの遣使があった。朝鮮半島交渉には、継体王期からの近江臣が壬申の乱の敗戦で没落し、近江大津宮の北郊で同郷の和邇(わに)氏とともに軍功を上げた小野毛人(えみし)の子で小野妹子の孫の小野毛野(けぬ)らが中心になって活躍した。
487年に新羅の神宮が置かれた「奈乙」は始祖が樹林内で卵生降誕した伝説の地で、支配者共同体の中核である「金」氏は、天降族として神聖性を高めた。新旧「唐書」は新羅の風俗を「好んで山神を祀る」とあり、高句麗や百済にはない新羅の特徴であると記している。大和政権の全国一元的な祭祀統制によって「仏教と神信仰」の二つに限定する政策は、同時代の新羅王権による国家的仏教化と神祇祭祀の再編と深く関わっている。広開土王期の高句麗の南下(400)によって朝鮮半島南部の金官加耶の鉄の輸入が途絶して、新羅産鉄の輸入に切り替えた際に、倭国は新羅のシルクロード経由物産の大量保有を知ることになる。新羅の神宮の森は、古代エジプト・ギリシャ・中央アジア・天山山麓と、シルクロードを経て由来したと考えられる。
◆古代の聖域の森
聖域を木立と石垣で囲む風習が、BC3000年頃の古代エジプト古王国以前の統一期のオシリス神の塚や聖池で確認されている〈写真1〉。
〈写真1〉古代エジプトの聖池
『大英博物館古代エジプト百科事典』(原書房、1997年)
ミケーネ文明(BC15世紀〜BC13世紀)はシュリーマンが1876年に発掘した最初のギリシャ文明で、古代文字「線文字B」の解読が進むにつれ、ミケーネ人はギリシャ人かギリシャ語を話しており、ギリシャ的多神教の世界で、多様な神々に男性の祭司と女性の巫女が仕えており、聖域の入口には参拝者が身を浄めるための水盤か泉水があったことも判明した。BC7世紀に古代エジプトの影響を受けて神々の姿が自然物から人物像へ・新たに人物化した神々が住まう神殿や祠が建てられて森で囲われた聖域へと変わった。〈写真2〉
〈写真2〉ギリシャ・アテネのパルテノン神殿跡
『詳説世界史図録』(山川出版、2014年)
BC4世紀のアレクサンドロス大王の東征では、神像や祠を森で囲むなどギリシャ的慣習の浸透・王は戦争を先頭で指揮(弱虫王は廃位)・在地領主を監視し支配する間接統治を徹底させた。インドのアショカ王はヘレニズム諸国と密接に関係し、戦闘象を供給したり、仏塔や寺院を木立で囲んだ〈写真3〉。
〈写真3〉インドの祇園精舎跡
『詳説世界史図録』(山川出版、2014年)
※写真は広報紙32~33ページをご覧ください。
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