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良寛をたどる。

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新潟県出雲崎町

このコーナーでは、良寛記念館に所蔵されている良寛に関する作品をご紹介します。

良寛遺墨漢詩五首の内『吾師来東土』部分

■原文
吾師来東土 是非小々縁
游梁々不遇 適魏々誰憐
直上崇峯頂 一坐経九年
晩接曠達士 慧命自茲傳

■読み下し文
吾(わ)が師(し)の東土(とうど)に来(きた)れるは
是(こ)れ小々(しょうしょう)の縁(えん)に非(あら)ず
梁(りょう)に游(あそ)ぶも梁遇(ぐう)せず
魏(ぎ)に適(ゆ)くも魏誰(だれ)が憐(あわ)れまん
直(じき)に崇峯(すうほう)の頂(いただき)に上(のぼ)り
一坐(いちざ)して九年(くねん)を経(へ)たり
晩(くれ)くに曠達(こうたつ)の士(し)に接(せっ)し
慧命茲自(えみょうこれよ)り傳(つた)う

■意訳
吾が師である達磨大師が、印度から東の地である中国に来たことには深いご縁がある。大師は先ず、梁の武帝を訪ねた。しかし、武帝は、大師の訪問を快く思わなかった。次に大師は、長江を渡り魏の孝武帝を訪ねた。魏でも大師を歓迎する者は誰もおらず、また梁での処遇を憐れむ者もいなかった。大師は直ぐに嵩山の頂に登ると、九年間坐り続けた。大師は晩年、聡明な慧可と出遇い、これまで学んだ仏法を伝授したのである。大師から慧可に伝えられた慧命(仏法の命脈)は途絶えることなく、遠い日本にいるこの私にまで伝わったのである。そうであるからこそ、遠い昔の遠い国の人である達磨大師であるが、「吾が師」と言えるのである。

■解説
良寛が尊敬する禅の祖師である達磨大師(だるまだいし)を詠んだ五言絶句。
当詩で疑問に思うのは、冒頭の「吾師」である。達磨大師はインドに生まれ、五二〇年頃に仏教布教のため中国に来訪した。良寛は一七五八年の生まれで二十二歳の得度と云われていることから、活動期間に一二六〇年以上の開きがある。よって、達磨大師と良寛が、相見することはないのである。それにも関わらず、良寛が達磨大師を「吾が師」と呼ぶのは、先月号「青山前輿後」の「縦」の解釈から続いている。
「縦」とは「縦糸」、「お経(縦))」(仏法)のこと。仏法を受け止めた時、それを説いた場所も時代も違う説者と自分とが「縦糸」で繋がっていると感覚する。それ故、良寛は、禅宗の祖師と呼ばれる達磨大師が慧可(えか)に伝えた教えを受け止めているからこそ「吾が師」と云うのである。
良寛が達磨大師を尊敬していたことは、現新発田市(旧紫雲寺町)で出遇った宗龍(そうりゅう)禅師との問答の中にも見れる。良寛は宗龍禅師に「誌公(しこう)観音と達磨観音はどちらが本物の観音か」と質問する。宗龍禅師は「誌公は達磨を観音と称した。達磨が観音であることが分かるということは誌公もまた観音といえる」と答えた。その答えに良寛は「世俗に仕える誌公を超えたところに達磨がいると考えれば本当の観音は達磨ではないか」と、達磨こそが真の観音であると自らの見解を述べている。また、当詩の結びである「自茲傳」を別行に書くことで、達磨大師の教えを受け止めていることを強調している。
達磨大師を尊敬する良寛であるが、意外にもその教えを詩歌では語っていない。達磨大師の有名な言葉に「気は長く心は丸く、心は大きく己は小さく」と云う言葉がある。その言葉は、まさに逸話に見られる良寛の姿そのものに聞こえる。良寛は、達磨大師の教えを言葉ではなく、行動で伝えていたのかも知れない。
良寛記念館 館長

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