■「江戸時代わが村の暮らし」(37)
上野山村の皆済目録(かいさいもくろく)
〜「歴史とみちの館」所蔵・平田家文書を読む〜
(村歴史文化財調査委員 渡辺伸栄)
◇領主と農民
江戸時代の土地は領主の物で、税は領主の取り分です。
税を納めた残りが農民の取り分。領主にとって、それは再生産のために必要な投資です。だから、翌年の生産に差し支えるような苛酷な徴税は、自らの首を絞めることになりかねません。
四公六民や五公五民は、折半ということなのでしょう。領主と農民は持ちつ持たれつの関係です。
◇皆済目録(かいさいもくろく)
さて、十月の納税通知に従って、村は、準備のできた税から何回かに分けて納税していきます。
代官所はその都度、受け取りの手形を渡します。そして、十二月の期限までに全てを納めきると、それまでに渡した手形と引き換えに、完納証明書を発行します。
その文書を皆済目録と言いました。
◇上野山村の納税
安永(あんえい)七(一七七八)年に、上野山村に下された皆済目録の内容を見てみましょう(写真は冒頭部分)。
本税と諸税合わせて、米での納税分は三十四石(こく)七斗(と)八升(しょう)六合(ごう)二勺(しゃく)四才(さい)とあります。ところが、実際に米で納めたのは、七石九斗五升分だけです。
その差、二十六石八斗三升六合二勺四才分の税は、米でなく、永(えい)十七貫(かん)五十二文(もん)六分(ぶ)の金で代納しています。永とは、四進法の金貨を十進法で計算するための単位です。
これのほかに、元々金や銀で納めることになっていた諸税が、永二貫二百二十六文四分五厘(りん)五毛(もう)と銀五十九匁(もんめ)五分(ふん)四厘(りん)、更に手数料として永十六文九分を納めています。
これらの金銀納を全て両(りょう)の単位に換算してみると、二十両一分(ぶ)ほどになるようです。
◇金納の多さ
米と金銀のほかに、山蝋(ろう)(ウルシ)の実を三升二合納めています。米の税を多額の金で代納できたのは、もしかすると、山蝋はじめ様々な山林資源からの現金収入があったからなのかもしれません。
あるいは、以前紹介した銅山開発による臨時収入のようなことがあったのでしょうか。
多額の金銀で税を納めているのは、驚きです。
※原文と解説は歴史館に展示、又は、下の本紙QRから
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