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チョッと知っ得 区内の文化財 酒井抱一(ほういつ)墓

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東京都中央区

■酒井抱一(ほういつ)墓
都指定文化財 旧跡
築地三丁目15番1号
築地本願寺境内

木々の葉が色づく紅葉もピークを過ぎ、冬至を迎える時期になりました。季節の移ろいの中で、寒暖差・日照時間・湿度の変化などを察知して落葉の準備をする植物の営みは、毎年決まって私たちの目を楽しませてくれます。その一方で、芸術の一つである絵画は、季節を問わずに自然の不思議さや美しさを堪能することができます。特に日本で発達した花鳥画などは、絵師の優れた美的感性のもと、優美で繊細な四季折々の情趣を表現した作品が数多く残されており、鑑賞の楽しみがいくつも味わえます。
江戸時代の日本画では、幕府御用絵師(ごようえし)の「狩野派(かのうは)」(中国風の漢画様式に日本のやまと絵の技法・要素を融合させたスタイルの画派)や宮廷画家で絵所預(えどころあずかり)の「土佐派」(伝統的なやまと絵の様式を確立・継承した画派)が二大流派として有名です。この他にも、両派とは様式・画法を異にして純日本的な装飾美を絵師の解釈で構成させた「琳派(りんぱ)」(本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)・俵屋宗達(たわらやそうたつ)が創始したものを尾形光琳(おがたこうりん)・乾山(けんざん)が復興・大成し、酒井抱一・鈴木其一(きいつ)などが継承した美術史的な系譜の流派)があり、江戸では独自の発展を遂げました。
中でも、武家出身の絵師・酒井抱一(1761~1828)は、風流典雅な自然の表情を繊細に捉えつつ、機知諧謔(かいぎゃく)を旨とする洗練された江戸の「俳諧(はいかい)」の精神を加え、新しい様式の琳派(「江戸琳派」とも称される)を確立した人物です。代表作の一つには、風雨にさらされた夏と秋の草花を銀地の画面に描いた二曲一双の「夏秋草図屏風(なつあきくさずびょうぶ)」(重要文化財・東京国立博物館所蔵)があり、右隻(うせき)には夏の激しい雨の様子を伝える流水や雨に打たれて色を増すヒルガオやユリなどの植物、左隻(させき)には秋風にもまれて宙を舞う紅葉したブドウの葉や横にたなびくススキ・フジバカマなどの植物を描き、動と静が織りなす自然の表情を見事に表現しています。また、12月の月にちなんだ動植物の自然な生態を描きつつ、俳諧的な味わいを持たせた12幅(ふく)の掛軸「十二ヶ月花鳥図」(皇居三の丸尚蔵館(しょうぞうかん)所蔵)などもあり、本区内の抱一作品(平成26年4月21日号で紹介した「絹本着色白梅図(けんぽんちゃくしょくはくばいず)」〈区民有形文化財・法重寺所蔵〉)にも通じる花鳥画の傑作となっています。
抱一(幼名善次、通称栄八、実名は忠因(ただなお)は、播磨国(はりまのくに)姫路藩初代・酒井忠恭(ただずみ)の孫として酒井家別邸(江戸の神田小川町)で生まれています。なお、早世した父に代わって家督(かとく)を継いだ兄・忠以(ただざね)(2代藩主)もまた多芸多才(茶道・能・俳諧など)な人物でした。特に酒井家では、古今の絵画収集に力を入れており、尾形光琳を召し抱えていた時期もあったほどです。抱一が後に絵師として活躍する土壌には、絵画への造詣が深い酒井家に生を受け、江戸(本国姫路には参勤交代で随行した半年間のみ滞在)での多彩な文人交流によって育まれた独自の感性や美意識がありました。
多感な10代から20代を江戸上屋敷(江戸城の大手門付近)で部屋住み生活を送り、30歳からは断続的に中屋敷(現在の日本橋蛎殻町一丁目付近)に住んだようです。7年後の寛政9年(1797)には、西本願寺18世・文如上人(もんにょしょうにん)の江戸下向に際して得度(とくど)(築地本願寺で遂行)し、酒井家を出て僧籍に入るも非僧非俗(ひそうひぞく)の自由な文人生活を送りました。文化6年(1809)、49歳の時に下谷根岸の庵居(あんきょ)(「雨華庵(うげあん)」)へ移り住み、68歳で没した後は築地本願寺に埋葬されました。
現在も同寺境内に残る抱一の墓は、僧の石造墓塔として特徴的な卵塔(らんとう)(無縫塔(むほうとう))形式のもので、正面に「等覺院文詮暉真(とうかくいんもんせんきしん)墓」の刻銘と裏に「文政十一年戊子(つちのえね)十一月廿(にじゅう)九日」の没年が刻まれています。

中央区教育委員会
学芸員 増山一成

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