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チョッと知っ得 区内の文化財 浴恩園(よくおんえん)跡

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東京都中央区

■浴恩園(よくおんえん)跡
都指定文化財 旧跡
築地五丁目2番
旧東京都中央卸売市場築地市場敷地

都内の文化財庭園(国指定の旧浜離宮庭園・旧芝離宮庭園・旧古河氏庭園(きゅうふるかわしていえん)・小石川後楽園・殿ヶ谷戸庭園(とのがやとていえん)・六義園(りくぎえん)、東京都指定の清澄庭園(きよすみていえん)など)では、新年早々から開園イベントが行われました。各庭園には特徴ある風致景観・自然環境が形成されており、園内を散策してみるとこの時期ならではの風情が楽しめます。中でも、二重の指定種別(特別名勝・特別史跡)を持つ旧浜離宮庭園は臨海部に位置する特性(海水を引き入れた「潮入(しおいり)の池」など)が創り出す自然の美と趣に富んだ庭園となっています。
実は、この庭園の北側(築地五丁目)にも、江戸時代(文政12年〈1829〉に焼失あり)から関東大震災後(東京市中央卸売市場築地本場の建設工事に伴って埋め立て)まで、約1万7千坪余りの松平家屋敷内に作庭された池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)が存在(明治期には海軍省構内に潮入りの2つの池などが現存)していました。かつての園地は、おおむね旧築地市場敷地の中央部から北西側に位置していたと推定され、現在は東京都指定の旧跡「浴恩園跡」(大正15年に史蹟指定、昭和30年に都条例改正により旧跡指定)となっています。
江戸時代中期の地誌『続江戸砂子温故名跡志(ぞくえどすなごおんこめいせきし)』をひもとくと、木挽町(現在の銀座二丁目から八丁目のうち)東に位置する埋立地(築地)の海浜に面する当地は、相模国小田原藩・稲葉美濃守(みののかみ)(稲葉正則)が拝領した屋敷(広大な中屋敷)の添地(そえち)として、寛文3年(1663)の秋に庭園が築かれたと記されています。最初に作庭された稲葉家の庭園にも潮を引き入れる3つの池が設けられ、その名も「江風山月樓(こうふうさんげつろう)」と称し、江上(こうじょう)の清風と山間の名月が望める名庭園であったようです。延享3年(1746)に稲葉家屋敷の東半分以上(約1万9千坪)が徳川御三卿(ごさんきょう)・一橋家所有の下屋敷となり、その後、寛政4年(1792)に一橋家から老中首座・将軍(11代家斉)補佐役の松平越中守(えっちゅうのかみ)(松平定信)に屋敷地の大半が分与(後に若干の切坪相対替(きりつぼあいたいがえ)あり)されました。
松平定信(1758~1829)は、8代将軍徳川吉宗の次男・徳川(御三卿の田安)宗武(むねたけ)の第3子として江戸で生まれ、17歳で陸奥国(むつのくに)白河藩・松平定邦(さだくに)の養子に入り、天明3年(1783)に白河藩11万石の家督を継いで3代藩主となりました。定信といえば、藩政はもとより老中として緊縮財政・学問思想の統制・風紀取り締まり・海防の強化・社会政策などの施策を次々に講じ、幕政改革(寛政の改革)を進めたことで知られています。
なお、定信は築地東南の海隅(かいぐう)地を拝領した翌年に辞職を願い出た幕府要職を免じられており、文化9年(1812)には55歳で家督を譲って致仕(ちし)(隠居)しています。下屋敷として使用した当地では、再整備した庭園を「浴恩園」と名付け(一橋家の御恩に浴する意を表す)、隠居後には「楽翁(らくおう)」と号して園内に居(「千秋館」)を構えて作庭を進め、天下の名庭園とうたわれる造園を手がけました。その優れた景勝については、園内の名所巡りを記した定信自身の随筆『浴恩園假名之記(かなのき)』をはじめ、絵画(「浴恩園真景」「浴恩園図記」「江戸浴恩園全圖」)や園記(小沢酔園(すいえん)「浴恩園記」)・詩歌などにも残されています。約1万7千坪の屋敷は、潮入りの大きな2池(「春風の池」「秋風の池」)を囲む回遊式の庭園が中心で、各所には布置(ふち)された泉石や築山・池中の島・石橋・亭(小建築物)などを配し、春秋の樹木から薬草・菜園に至るまで、庭園の空間構成を意識した各種の樹木や草花の植栽が整えられていました。また、園内には和漢両語の雅名(がめい)を付した52の景勝地を造り、雅名と詩歌を刻んだ石柱も立てられました(詩歌は巻子(かんす)に伝存)。
風光明媚で特異な景趣をもつ浴恩園の様子は、現存する絵画や文学作品などからうかがうことができます。

中央区教育委員会
学芸員 増山一成

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