■伝馬町牢屋敷(てんまちょうろうやしき)跡
都指定文化財 旧跡
日本橋小伝馬町3・4・5
令和6年(2024)1月1日の午後4時10分に石川県能登地方を震源とするマグニチュード7.6(最大震度7)の大きな地震(「令和6年能登半島地震」)が発生しました。他にも新潟県・富山県・福井県などで震度5強以上を観測し、被災した各地で住宅の倒壊や火災・津波被害・地盤災害・人身被害などに見舞われました。このたびの地震被災者の方々の生活再建や被災地の1日も早い復旧・復興を願うとともに、昨年は、大正12年(1923)に発生した関東大震災から100年の節目を迎えたこともあり、地震災害に対する備えの必要性を強く認識させられました。
ところで、区内には関東大震災からの復興過程(主に昭和初期)で整備された「復興小公園」(復興小学校と隣接して造られた校庭の延長・火災延焼防止・防災拠点・憩いや地域コミュニティーの場)が10カ所程度(常盤・久松・十思(じっし)・箱崎・蛎殻町・鉄砲洲・京橋・越前堀・月島第一・月島第二など)現存しています。中でも、日本橋小伝馬町の区立十思公園は、隣接する旧十思小学校(現在は複合施設「十思スクエア」)とともに、整備・改修などを行いながら活用されています。これらは関東大震災後の復興事業の一端を今に伝えていますが、他方で、当地は江戸時代から明治初年(明治8年〈1875〉に市谷(いちがや)監獄へ移転)まで牢屋敷(留置・拘置施設)が置かれていた歴史上重要な場所でもあります。このため、当該地一帯は歴史的価値を有する遺跡「伝馬町牢屋敷跡」として、東京都の旧跡指定を受けています。
徳川家康が関東入国(天正18年〈1590〉)した後の牢屋敷に関する一次資料は確認されていません。しかし、幕府が編さんした地誌『御府内備考』には、当初の牢屋敷が常盤橋御門外の本町一丁目(現在の日本橋本石町二丁目)に設置され、奈良屋市右衛門(町年寄)と後藤(金座の御金改役(おきんあらためやく))屋敷のもとにあり、慶長年間(1596~1615)には小伝馬町の地へ移されたと記されています。その後、江戸城や江戸市街の大半を焼失した明暦の大火(明暦3年〈1657〉)をはじめ、度重なる火災や自然災害に見舞われましたが、伝馬町の牢屋敷は同位置での再建・修築を繰り返してきたようです。
伝馬町牢屋敷は、江戸時代を通じて屋敷の拡張や屋敷内建物の配置変更、屋敷地周囲の変化(北側に設けられた「火除土手(ひよけどて)」や道路の新設・廃止などの再編)があるものの、その範囲はおおむね現在の十思公園・十思スクエア・大安楽寺(だいあんらくじ)・身延別院(みのぶべついん)を含むエリアにあたります。牢屋敷の総坪数は、2600坪(8595平方メートル)以上にも及んでおり、敷地南西の一角は俗に牢屋奉行と称された囚獄(しゅうごく)(入牢者の管理や行刑などを指揮した幕臣の役職)を世襲で務めた石出帯刀(いしでたてわき)の屋敷(約480坪〈約1586平方メートル〉)が占めていました。
堀や土手で三方(南側以外)を囲まれた牢屋敷には、大伝馬塩町(しおちょう)(現在の日本橋本町四丁目)に面する西側に表門があり、対して東側の小伝馬上町(うわちょう)に面して裏門が設けられていました。牢屋敷内部は時期によって建物配置や区割りなどが異なると思われますが、江戸時代後期の記録によると、およそ北半分が練塀(ねりべい)で囲まれた牢屋(身分・性別・遠島(おんとう)者などの区分別の部屋があり、通常は300~400人〈多い時はその倍〉を収容)で構成されており、表門から屋敷中央には板塀で囲んだ囚獄配下の役人空間(与力・同心の詰所(つめしょ)や役人長屋など)があり、中央の張番所(はりばんしょ)付近と東の裏門付近には埋門(うずみもん)(練塀下方に設けた小さな開口の穴門(あなもん))を設け、南東角には死罪場が配置されていました。
平成24年(2012)には、十思スクエア別館の建設に伴って当該地から神田上水の遺構(木樋(もくひ)・埋桝(うまます)・井戸)などが出土しており、その一部については現地での移築復元が図られています。
中央区教育委員会
学芸員 増山一成
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