■浅野内匠頭(たくみのかみ)邸跡
都指定文化財 旧跡
明石町10・11番および1番街区(おおむね南半分)
築地鉄砲洲と称されていた現在の湊・明石町一帯は、明治元年11月19日に開市場[かいしじょう](貿易を目的としない外国人の逗留[とうりゅう]区域「築地外国人居留地」)が設けられ、明治32年(1899)の条約改正に伴う居留地廃止まで、教会・学校・外国公使館などが集まる文教地区の様相を呈していました。一方で、居留地開設前の築地鉄砲洲を古地図などでひもとくと、江戸時代を通して大部分が武家地で占められていたことが確認できます。
当該地エリアの拝領屋敷(武家屋敷)の一つには、元禄期の赤穂事件で断絶した播磨国[はりまのくに](現在の兵庫県)赤穂藩[あこうはん]浅野家の江戸屋敷(8千974坪余りの上屋敷、現在の明石町10・11番および1番街区の南半分に相当)がありました。平成22年(2010)に実施した明石町1番15号(区立明石小学校・同幼稚園敷地)の発掘調査では、浅野家拝領時期の遺構から同家の名が記された木製品なども出土しています(明石町遺跡(第3次)遺跡)。
広島藩浅野家(42万6000石)の分家である浅野家は、宗家とは別に領地を拝領した大名家として4代(初代「采女正[うねめのかみ]」長重[ながしげ]、2代「内匠頭」長直[ながなお]、3代「采女正」長友[ながとも]、4代「内匠頭」長矩[ながのり])続きました。正保2年(1645)、長直の時に常陸国[ひたちのくに]笠間藩(5万3500石)から播磨国赤穂藩へと移封[いほう](国替え)となり、明暦3年(1657)には板倉家との相対替[あいたいがえ](拝領屋敷地の交換)で鉄砲洲に上屋敷を構えました。なお、延宝9年(「天和[てんな]元年」1681)に敷地の東半分(現在の明石町5・9・12番に相当)が収公されるまで、屋敷地は西東南の三方を堀で囲まれた広大なものでした。
ところで、元禄赤穂事件といえば、第一に元禄14年(1701)3月14日に江戸城本丸御殿(松の廊下)で勅使饗応役[ちょくしきょうおうやく]の浅野長矩が高家[こうけ](幕府の儀式・典礼指導の役職)肝煎[きもいり]の吉良義央[よしなか(ひさ)]へ斬り付ける「殿中刃傷[でんちゅうにんじょう]事件」が発端となり、長矩の即日切腹、浅野家の断絶、城地収公を伴う改易処分を受け、鉄砲洲の浅野家上屋敷は事件発生11日後の25日に若狭国[わかさのくに](現在の福井県)小浜藩[おばまはん]酒井家へと引き渡されて同家の上屋敷となりました(その後は数度の「切坪[きりつぼ]」相対替などを経て屋敷地が分化)。そして、第二の事件として元禄15年(1702)12月14日の「吉良邸討ち入り事件」(旧浅野家家臣「浪人となった元家老の大石内蔵助良雄[くらのすけよしお(たか)]を筆頭とする旧家臣47人」が主君の恥辱をそそいだ事件)が起こりました。翌15日に泉岳寺へと引き揚げて主君の墓前にその報をなした一党は、幕命により大名4家(細川・松平・毛利・水野)に分かち預けとなり、各家にて切腹の後に遺骸が泉岳寺へ葬られたことはよく知られています。
本所の吉良邸で義央を討ち果たした赤穂浪士たちは、泉岳寺への途上で鉄砲洲の旧江戸屋敷(小浜藩酒井家上屋敷として一定の増改築あり)西側の表通りを通ったといわれています。長矩が居住した元禄期の「鉄炮洲上屋敷絵図」(龍野歴史文化資料館所蔵)によれば、浅野家上屋敷の表通りに当たる西側には、長屋塀型の表長屋(江戸勤番の藩士たちが住む屋敷塀を兼ねた表長屋)を囲んで中央に表門を設け、北西角に江戸留守居の居宅と裏手に馬屋がありました。北側も長屋塀囲いとし、屋敷裏に当たる東側は板塀囲いの長屋、南側の掘割沿いは竹簀垣[たけすがき]で囲われていました。また、御殿空間である敷地の中心部は、各種の殿舎で構成(「舞台の間」は2カ所もあり)され、この南には泉水や築山を配した庭園と東西に広がる50間ほど(約90m)の馬場が配されていたようです。当地は、元禄赤穂事件ゆかりの旧跡(都内に10カ所以上)の一つとしてその歴史を今に伝えています。
中央区教育委員会
学芸員 増山一成
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