■サイパンでの戦争体験を聞く
サイパン島で生まれ育ったデビッド・サブランさんに、実際の戦争時のことなど、大変貴重なお話を伺いました。
[デビッド・サブランさん]
日本委任統治時代に生まれ、戦争を体験。観光局で局長を務めた。92歳
◇小学校で日本語教育を受けた。姉のオルガンが一家の楽しみ
サイパンは歴史上、複雑な背景を持っています。1900年にドイツ軍が侵入してきて占領し、その後、1914年に日本人の統治下となり、1920年から日本の委任統治領になりました。第二次世界大戦後はアメリカの自治領です。
私は、日本委任統治時代の1932年4月2日、父親のエリアス、母親のカルメンのサブラン一家に、11人きょうだいの6番目として誕生しました。
当時の小学校に5年生まで通い、5年間、日本語の教育を受けました。当時の日課は、毎朝神社の掃除をしてから準備運動で体を慣らし、日本のある北のほうに向かって天皇陛下に最敬礼をすること。でも勉強は午前中だけで、午後からは農作業でした。
当時、私たちはサイパンの南西部ガラパン市に住んでいました。姉のマリアは、毎週日曜にカトリック教会でオルガンを弾いていました。父はマリアが私たち家族を楽しませることができるようにとオルガンを買い、そして彼女は教会で演奏していた曲の数々を夕食のたびに披露してくれました。姉の演奏に合わせて、家族一緒にサイパンの歌や日本の歌を歌っていました。
◇父と姉がスパイ行為を疑われ、父は日本軍に拘束される
1944年2月のある早朝、日本の憲兵隊たちが来て、家から出て行くように言いました。そして家からオルガンを持ち出し、おので粉々にしてしまったのです。どれだけ悲しい気持ちになったことでしょうか。
その憲兵隊は沖縄出身者から、私たちがオルガンでアメリカ軍にメッセージを送っているという情報を入手していたのです。もちろん、全くの誤報です。それでも憲兵隊は、父と姉、近くにいた他の2人を軍の本部へ連行していきました。間もなく、姉を含めた3人は釈放されましたが、父はアメリカのスパイとして告発され、オルガンはアメリカとの通信に使われたとして追及を受けたのです。2か月後、父の容疑は晴れ、ようやく戻ってくることができました。
◇爆撃は唐突に始まり家族全員で洞窟へ避難した
1944年6月10日、米軍機がサイパンとテニアン(サイパン島の南西にある島)を爆撃し始めたことを今でもはっきりと覚えています。
この日は日曜日で、兄のマリアノと私は、食料を分けてもらうため日本軍の戦車大隊の友人を訪ねようとしました。ちょうど外に出たときに爆弾が炸裂し始め、父は大きな声で私たちを呼び戻しました。
米空母の戦闘機は休むことなく爆撃し、日本軍も応戦。日米による絶え間ない砲撃と空中戦が展開されたのです。
攻撃から2日目、父は私たちを守るため、洞窟に行くことを決めました。家から北の方角にあるタポチョ山近くに大きな洞窟があるのを思い出したためでした。洞窟までの激しい道のりを進み、ようやくの思いでたどり着くと、ほかの家族連れもやってきて、20名ほどで共同生活をしました。
戦闘は5日間、昼も夜も続いていました。父が洞窟にあった穴から西の方角を眺めると、何十隻ものアメリカ軍の艦船が水平線を埋め尽くしているのが見えたそうです。それから間もなく、アメリカ艦船から多数の小型船が軍隊を乗せてサイパンの浜辺に近づいてくるのを見たのです。1944年6月15日の朝、アメリカ軍の戦闘艦の大艦隊が西の地平線を覆い尽くし、アメリカ軍のサイパン上陸が始まりました。
私たちは洞窟での避難暮らしを続け、若者たちがサトウキビ畑でサトウキビを刈って洞窟に持ち帰り、食事にしていました。3週間ほど続いたある朝、日本軍の一団が通り過ぎるのを見かけてサトウキビ畑に身を隠し、軍人たちが去った後に大急ぎで洞窟に戻ってきたことがありました。しかし、その頃には日が昇り始めていたため、沖合の米軍艦船から洞窟近くの丘で人がはっているのが見えて艦砲射撃を始め、私たちの洞窟の入り口付近で爆弾が落ちました。
でも家族全員無事で、その後にアメリカ軍に保護され、キャンプに収容されました。
◇戦争を起こしてはならない 対話を通じて平和を築く
父はその後、警察官になり、戦後初の民間選挙で市長になりました。父は日本統治下でサイパンが大きく発展したことを経験していたので、日本に対してすごく信頼があったと思います。戦争になったときは日本軍に味方をして国を守ってもらうという意識でした。結局アメリカ軍に保護されましたが、それに対してどうこう思うこともありませんでした。なぜなら、生きていかなければなりませんでしたから。ただ、それを含めて今思うのは、やはり絶対に戦争を起こしてはいけないということです。
当時の私は12歳でしたが、長い年月が経っても記憶は鮮やかです。
今もまだ各地で紛争が起きています。しかし、言葉や文化が違っても、対話をすることで道は開けていくはず。絶対に戦争はよくない。何があっても対話を通じて平和を築いていくことが必要だと考えています。
■国際平和都市千代田区宣言
平成7年3月15日、区は世界の恒久平和の実現に向けて積極的に行動することを、区に住み、働き、学ぶすべての人々の決意として「国際平和都市千代田区宣言」を発表しました。
過去の戦争を二度と繰り返さないことを堅く誓い、このことを後世に伝えていくこと、そして、今日、もはや自分たちだけの平和と安全を考える時代ではないことを高らかにうたうとともに、世界の人びとと連帯して核兵器をなくし、同じ地球の仲間として友好を深め、互いに理解しあい、世界の恒久平和を実現するために積極的に行動することを宣言しています。
■平和祈念モニュメント
「国際平和都市千代田区宣言」を永続的に記念し、その精神を広く訴えるため、平成9年3月、区役所本庁舎に設置しました。モニュメントは、公募により制作されました。
■現地での活動内容や学んだことをまとめた報告書を作成しています。報告書は3月下旬頃から区のHPまたは問合せ先の窓口で閲覧できます(無償配布もあり(数に限りあり))。
問合せ:国際平和・男女平等人権課国際平和担当(区役所6階)
【電話】03-5211-4165
<この記事についてアンケートにご協力ください。>