◆阪神・淡路大震災
平成7年1月17日、春の台湾旅行の団体で、ガイドの説明を聞きながら東海岸を走っていたら、「今朝、日本で大地震がありました」という案内があった。そこで台北についた時、西宮に住んでいる娘の家族の安否が心配になり、聞いてみようと国際電話をしたが「日本への電話は通じません」という返答だった。それでも新東京国際空港(成田空港)に着いた。ここからも電話をしたが通じない。
地震から2日後ようやく電話が通じ、先方から電話があって、「鉄筋コンクリート5階建ての石油会社の社宅、幸いにして建物には大きな被害はなかったが、家の中はめちゃくちゃ。テレビ、たんす、冷蔵庫は倒れる。火災はないが道路は波打ち電信柱は傾く。社宅の人に支えられて何とか生活しているが、6歳と4歳になる子どもは、昼夜地震の恐怖におびえる。鉄道が開通したら母親と娘2人を東京の実家(狛江市東野川)に預けたい」という電話が入る。すぐにと言って、鉄道の開通を待った。
東野川の我が家に来た孫娘2人の顔には不安の表情が漂い、座敷の隅に置いてあった1辺1mくらいの段ボールの箱を使って遊んだ。親が子どもに覆い被さる姿や、子ども同士で抱きつく姿を見せるなど、不安な状況でいっぱいだった。
そこで地震の恐怖を忘れさせ、平常心に戻してやろうというのが爺(じじ)・婆(ばば)の日課になった。緊張した心をほぐしてやろうと砧公園に連れて行くと、どこかで工事の槌音(つちおと)が響く。「地震だ」と言いながら体を揺さぶり、裏山の民家の火事はすごかったと言い出した。
東野川の我が家の庭には蛇や蛙が時折顔を出すことがあり、近くの野川緑地公園を歩くと、季節の自然を感じることができる。散歩を一緒に楽しみ、また図書館に行って絵本を借り、読み聞かせをして地震の恐怖を早く忘れさせようとした。
家の近くの小学校で母親と同級生だった女性も散歩に連れていってくれて、野の草で首飾りを作ったり、自分たちの少女時代に埋めたタイヤの上で跳びはねさせたりして面倒を見てくれた。
東野川の我が家への避難はやっと水道が復旧した3月上旬まで続いた。楽しかっただろうか。お別れの前日、思い出の野川緑地公園を散歩しながら、喜多見の書店で子ども向けの学習雑誌を買って、翌日の新幹線で帰った。
後日、孫の元気な姿を見ようと西宮に行った。古くからの狭い道は倒れた電信柱や電線でふさがれ、避難も消火活動もできる状態ではなかった。倒木や倒れた柱は、火災を伝えていく。
今、首都圏直下地震が論じられている。いかにして倒壊や火災を止められるか考えておこう。
井上 孝(元狛江市文化財専門委員)
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