◆災害2~関東大震災を振り返って~能登半島地震と関東大震災
令和6年元日に発生した「能登半島地震」。観光名所の輪島市朝市通りでは、店舗が密集していたこともあり、大規模な火災が発生し、焼け野原となってしまった。倒壊した住宅には80歳代の女性がただ一人崩れた隙間に取り残されたが、3日3晩じっと寒さをこらえ、約72時間後に奇跡的に救出された。
しかしながら、今案じられている「首都直下地震」が発生した時にはどうなるのだろうか。「関東大震災」での出来事を振り返りながら考えてみた。
相手は地震である。地面が揺れれば家が倒れる。モルタル部分が剥(は)がれたり、屋根瓦が落ちて窓ガラスが割れれば木造部分が剥き出しになる。いくら道路を広げても、1軒火を出せば風に飛ばされた火は部屋に舞い込む。狛江市のように民家が密集していれば広範囲に燃え広がる可能性がある。「自動車での避難」は渋滞を引き起こすとともに、緊急車両の通行を妨げ、火災で逃げ遅れた人を救出できなくなったり、渋滞している自動車のガソリンタンクの爆発を次々と誘発させる恐れもある。
大正12年の関東大震災の時、当時の狛江村では幸いにも「人畜死傷ナシ、倒壊家屋ナシ、土間の周壁落下セルモノ多シ」と北多摩郡役所に報告した程度の被害ではあったが、隅田川の永代橋の上では荷物を持ち込んだ避難者の荷物に火がついて多くの人が犠牲になったことはよく知られている。
それに対して新大橋では、橋の両側に警察官が立って、橋の上に荷物を持ち込ませなかったから大勢の人の命が助かったという石碑が日本橋側の堤防上に立っている。天災であったと同時に、人災という側面もあったことをうかがい知ることができる。
旧東京市内で最も被害の大きかった本所の被服廠跡(ひふくしょうあと)には、昭和5年に「震災記念堂」が建てられた。後に、太平洋戦争中の昭和20年3月10日には江東地区に大空襲があって多くの方が亡くなり、その御霊も合祀した時に「東京都慰霊堂」と改称した。震災と戦災、合わせて約16万3000人もの御遺骨が安置されているという。
地震はいつどこで起こるか分からない。「首都直下地震」が起きた時は、電柱が倒れて道をふさげば緊急車両も通れなくなるが、液状化のことも考えなくてはいけない。
液状化が起これば、都心に立ち並ぶ高層建築の倒壊も考えられる。倒壊も火災も簡単に防げるものではない。今回の「能登半島地震」を契機とし、「首都直下地震」に対する危機意識についても改めて考えていく必要があるだろう。
井上 孝(元狛江市文化財専門委員)
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