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「50年目の伝言」-多摩川水害-

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東京都狛江市

◆アルバム
◇濁流に消えたマイホーム
「まさか家が流されるなんて…」
狛江市猪方。やさしく包むように流れる多摩川べりの住宅で、木村将英(64)さんが50年前の「あの日」を振り返る。
1974年9月1日。多摩川は増水していた。台風16号の影響で首都圏周辺は記録的な豪雨に見舞われ、上流の小河内ダムが貯水限界量を超えて放水。川は濁流となって盛り上がっていた。
将英さんは当時中学3年生。この日の午後2時ごろ、2階の部屋で受験勉強中に、二ケ領宿河原堰とつながる小堤防の先端が崩れた直後を目撃した。1階に下りて両親に告げると、父親の昭久さん(当時47)はすぐ愛用のカメラで、河原から渦を巻く濁流に向けてシャッターを切った。カメラ好きの昭久さんは、ことあるごとに家族の写真を撮っていた。
午後6時すぎ避難命令が出る。3歳上の姉や両親と家族4人で狛江第二中学校に避難したが、将英さんにまだ切迫感はなかった。「2階まで水がくることはないだろう」
だが、濁流は本堤防の土をえぐって半円状に決壊させ、猪方の住宅地を襲う。翌2日未明から住宅は濁流にのみ込まれ始め、午前1時すぎ、木村家のマイホームも流出。玄関のたたきだけが残された。家が傾き、濁流に消えるまでわずか5分だった。
避難所で市収入役から最悪の結果を聞いた昭久さんは、茫然とした表情で将英さんらに告げた。「家が流されたそうだ」
マイホームは2階建て。55年に構えた平屋建てが手狭になり、昭久さんが10年間、爪に火をともすように倹約してためた資金で72年夏に新築したばかり。被災直後、昭久さんは仮住まいの都営狛江アパートで週刊朝日の取材に答えた。「精も根も尽き果てました」
それでも、1年後には同じ場所にマイホームを再建した。「失意のどん底からローンを抱えながらよく頑張ってくれたな」と将英さんは父親の苦労をしのぶ。
被災後、昭久さんは家族の思い出が刻まれた写真の束を下流から発見。流出した自宅の屋根も下流の河原に漂着していた。この屋根のシーンは、山田太一さん原作・脚本のテレビドラマ「岸辺のアルバム」(77年放映)の最終回に登場する。
あの未曽有の水害から半世紀。岸辺の人たちは今、穏やかに暮らす。だが、将英さんは自戒を込めていう。「おとなしい多摩川がいつ〝怒る川〟に変身するか、だれにもわからない」
佐藤清孝(元新聞記者)

堤防が決壊し、19棟の家屋が流出した多摩川水害から今年で50年。関係者の教訓を毎月、「伝言」として紹介する。

◇木村将英さん
自然は信じられない力で牙をむく。それは、今年の能登半島地震でも改めて実感させられました。50年前の多摩川水害の時には、家が流されるなんて誰も思っていなかった。2019年の台風19号では多摩川が増水し、狛江市で大きな被害(床上・床下浸水計約301棟、448世帯)があり、避難勧告も出ました。やはり日々の備えが大事です。懐中電灯や飲料水、非常食の用意・点検を怠ってはいけません。日本は災害列島なのですから。

◇多摩川水害
1974年9月1日、台風16号の影響で多摩川が増水。狛江市猪方地区に設置された農業用の取水堰「二ケ領宿河原堰」に水がぶつかって発生した迂回流が左岸の堤防を約260メートルにわたって壊し、3日までに家屋19棟が流出。住宅が次々と流されていく衝撃的な光景がテレビ中継され、この水害を背景に家族の崩壊と再生を描いたテレビドラマ「岸辺のアルバム」も話題を呼んだ。

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