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自治体の皆さまへ

知ってほしい、荒川放水路のこと(1)

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東京都足立区 クリエイティブ・コモンズ

足立区を流れている荒川放水路は、大正13年に通水して今年で100周年を迎えました。しかし、普段何気なく目にしている、この放水路のことをくわしく知らない方も多いのではないでしょうか。
今号では通水100周年を記念して、荒川放水路について紹介します。
紙面の内容には諸説ある場合があります。

●「荒川放水路」ってどんな川?
埼玉県・長野県・山梨県にまたがる甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)を源流とする荒川のうち、岩淵水門(東京都北区)から隅田川と分岐して、足立区・墨田区・葛飾区・江東区・江戸川区を流れる部分が「荒川放水路」。全長約22キロメートル、川幅(堤防から対岸の堤防までの間)約500メートルの、治水対策のために造られた人工放水路です。この放水路の堤防は通水してから100年間、一度も決壊したことがありません。

●荒川放水路のスタート地点は「岩淵水門」
この岩淵水門(青水門)から放水路の旅は始まります!荒川が増水した際、水門を閉鎖して隅田川への水の流入を遮断することで隅田川の氾濫を防ぐ、とても重要な役割を担っています。完成後、令和元年の台風第19号などで5回閉鎖したことがあります。

「青水門の約300メートル上流にあるのが、旧岩淵水門(赤水門)。老朽化などにより、昭和57年に水害からまちを守る役目を青水門に引き継ぎました。この赤水門は、歴史的重要性から、令和6年8月15日に国の重要文化財に指定されました!」

■第一章 なぜ荒川放水路が造られたのか(明治43年まで)

【1】「荒ぶる川」の存在
荒川放水路がなかったころは、荒川は現在の隅田川を流れていました。実は、旧荒川は「荒ぶる川」と呼ばれるほど洪水が多い川だったのです。

◇なぜ洪水が多かった?
江戸時代、徳川家康(とくがわいえやす)から3代目・家光(いえみつ)の時代にかけて、埼玉・東京東部の平地を開発するために、旧荒川の流れを和田吉野川・入間川の流路に付け替え、現在の隅田川を下流部とする荒川ができました。しかし、下流部の水路が狭く、たびたび洪水が襲うようになり、この状況は荒川放水路ができるまで続いたのでした。

[旧荒川付け替え前]
平地を開発するために川を付け替えよう!
[旧荒川付け替え後]
久下の部分の付け替え工事で和田吉野川・入間川の流路へ…
下流部は水路が狭く、雨が降ると氾濫しやすくなりました…

「川を付け替えてから放水路ができるまでの約300年間で、100回以上洪水が起きたと言われています。」

◇当時の住民の洪水対策
氾濫が起きやすい地域の住民は、度重なる洪水に備えて独自の対策を講じていました。
・水塚(みづか)…食料などの備蓄庫や避難所として利用するため、盛り土と石垣の上に蔵を築くこと
・上(あ)げ舟(ふね)…洪水時の移動手段とするための小舟を、家の軒下に吊るすこと

【2】放水路開削のきっかけ
明治43年8月、数日間降り続いた大雨により河川が増水し、大量の泥水が東京を襲いました。
この洪水の被害は、浸水家屋約27万戸、被災者約150万人(死者369人)、被害総額約1億2,000万円(当時の国民総所得の1.7パーセント)となりました。これがきっかけで、明治政府は旧荒川の抜本的な治水対策として、荒川放水路の開削を決断しました。

◇水は2週間も引かないまま
旧荒川の下流域では水が2週間引かず、その年は米の収穫ができなかった農家もあったといいます。当然、翌年に植えるための種もみ(種にするための米)も採(と)れず、農家は種もみを手に入れるのに苦労したそうです。

制作協力:荒川下流河川事務所/出典:『荒川放水路変遷誌(荒川下流河川事務所)』『新版荒川放水路物語(絹田幸恵・(有)新草出版)』

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問い合わせ先:広報係
【電話】03-3880-5815

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