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自治体の皆さまへ

知ってほしい、荒川放水路のこと(2)

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東京都足立区 クリエイティブ・コモンズ

■第二章
荒川放水路、計画から通水までの道のり(明治44年から大正13年)

【1】放水路開削計画

◇「旧荒川の改修」ではなく「新たな放水路の開削」
当初、「旧荒川を改修するか」「新たに放水路を開削するか」の2つの選択肢がありましたが、次記の3つの理由で新たな放水路の開削が決まりました。
1.旧荒川沿いは市街地化が進んでおり、川幅の拡幅が困難
2.旧荒川は著しく蛇行していて、流路を直線化するだけでも放水路開削に匹敵する費用と労力を要する
3.旧荒川の改修だけでは大きな船が通れないなど、水運が向上せず十分な経済効果が得られない

◇放水路ルートの決定
候補は4つありましたが、日光街道の宿場町として発展した歴史ある千住町を首都と切り離さないようにするために、候補4に決まりました。
[候補1]綾瀬川の合流付近から分流
[候補2]上流部である熊谷堤付近から分流させ、神田川に注ぐ
[候補3]千住町の南側を迂回(うかい)させる
[候補4]千住町の北側を迂回させる(これに決定)

[候補1]
綾瀬川の合流付近から分流させるのは、治水上の効果が期待できない
[候補2]
熊谷堤付近から分流させ、神田川に注ぐのは実現性に乏しい
[候補3,4]
千住町の南北どちらを通るかが最終的に議論された

◇住民の反応
ルートの候補が提示されたとき、千住町を通る候補3,4になることを恐れた住民は開削に反対。当時の千住町長は住民を代表して、明治44年に陳情書を東京府庁と内務省に持参しましたが、願いは叶うことなく放水路のルートが4に決まりました。

〔陳情書「荒川改修工事二付陳情」の主な内容(要約)〕
・陸運の不便への憂い
千住町は大きな街道が通り、経済的にも要となる場所。そこに道路面より約2メートルも高い堤防を造ると、急な坂道を上り下りしなければならず、荷馬車で野菜の出荷などをするのも一苦労で不便である。
・立ち退きによる商業上の不安
橋戸、河原はそれぞれ工場や商店、大市場があり千住町の主要部。今回の計画でこれらが立ち退かなくてはならなくなり、商業的にも市民の生活的にも不安である。

【2】開削工事の過程
工事は明治44年から開始され、大正13年に通水。その後も各地の水門の整備などが続き、最終的に昭和5年の竣工(しゅんこう)まで、約20年にわたって工事が行われました。

名称:総工事費用
数量:3,144万6,000円
※現在の価値に換算すると、約2,300億円(土地買収、家屋移転などの費用を除く)

名称:作業員
数量:約300万人

名称:全長
数量:約22キロメートル

名称:掘削土量
数量:2,180万立方メートル※東京ドーム約18杯分

名称:土地買収
数量:1,098町歩(約11平方キロメートル)

名称:移転世帯数
数量:約1,300世帯

「ちなみに、区内にある荒川と直結した水門は隅田水門(千住曙町)。荒川と旧綾瀬川を隔てていて、荒川増水時は旧綾瀬川を通じて隅田川に水が流入しないようにする役割があります。」

□開削工事の先導者・青山士(あおやまあきら)
荒川放水路を造るのに大きく貢献した技術者の1人が、青山士氏です。青山氏は東京帝国大学(現東京大学)工学部を卒業後、「20世紀最大の土木工事」と名高いパナマ運河建設に携わるため渡米。日本人でただ1人、この工事に参加しました。8年間パナマ運河建設で経験を積んで帰国し、その知識を活(い)かして放水路開削工事の指揮を執りました。
開削工事で青山氏が特に活躍したのは、旧岩淵水門(A面参照)の建設です。水門建設予定地の地盤が弱いことを知った青山氏は、旧岩淵水門の基礎を造るとき、川底よりさらに20メートル深いところに鉄筋コンクリートの枠を6個埋めて固めました。当時、「そこまで頑丈にする必要があるのか」という反対もあったものの、結果的に大正12年に発生した関東大震災では何の被害を受けることなく、無事に完成に至ったのでした。

◇人の手で掘られた放水路
開削工事は、人力掘削、機械掘削、機械浚渫(しゅんせつ)の順番で進められました。機械がまだなかった着工初期のほか、高水敷(河川敷)以上の掘削や機械掘削に適さない場所は、基本的に人力で掘削されました。

・掘削とは…土砂や岩石を掘り取ること
・浚渫とは…河川等で水底の土砂などを掘りあげる工事のこと

「人の手で掘った土の量は、約250万立方メートル(東京ドーム約2杯分)にもなったそうです。機械化が進んでいる現在からは想像できないほど大変な作業だったと思います。工事に携わったすべての方に感謝の気持ちでいっぱいです。」

◇犠牲者22人、負傷者約1,000人の壮絶な工事
放水路の完成までに高潮や落雷などにより作業員22人の命が失われ、約1,000人が負傷しました。青山氏は大正13年に放水路が通水した際、犠牲になった仲間を弔うために記念碑を造り、銘板には次の言葉を刻みました。
「此ノ工事ノ完成ニアタリ多大ナル犠牲ト労役トヲ払ヒタル我等ノ仲間ヲ記憶センガ為ニ(この工事を完成させるために、大きな犠牲と苦労をした私たちの仲間を記憶するために)」

◇東武線の路線変更
橋(線路)を放水路に対して垂直に架けるため、現在の東武スカイツリーラインも大幅に走行ルートを変更しました。これにより、小菅駅、五反野駅、梅島駅が、放水路通水と同じ大正13年に新たに開業し、同駅も令和6年で100周年を迎えました。
旧線があった場所は道路になり、現在は「亀田トレイン通り」「梅田通り」と名付けられて地域の方々に親しまれています。

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