■第三章 通水から現在。そして未来を見据えて(大正13年以降)
【1】放水路の通水と竣工
大正13年10月12日、旧岩淵水門完成により上流から下流までがつながったことで、通水が行われました。その後、各地の浚渫(しゅんせつ)作業と水門工事が続けられ、昭和5年にすべての工事が完了しました。
【2】荒川放水路と住民の関わり
◇水練場・天然プール
昭和初期ごろの放水路はまだ水が澄んでいて、子どもたちは放水路で水遊びを楽しんでいました。学校にプールがなかった時代なので、水泳の授業も行われていたそうです。
◇新しい橋と渡し舟
通水に先立ち、大正11年から13年にかけて、西新井橋や江北橋、堀切橋などの木造橋と、鉄筋コンクリート造の千住新橋が開通しました。橋が近くにない地域では、「鹿浜の渡し」「太田の渡し(本木)」などの渡し舟が運行され、対岸との交通に活躍しました。
◇桜の名所「荒川堤」
明治時代、五色桜の名所として親しまれた「荒川堤」。この桜並木は放水路開削の際、633本が伐採、89本が移植されました。これを契機として荒川堤の桜並木は衰退の一途をたどり、昭和22年に消滅。しかし、「桜の里帰り」や「ふるさと桜オーナー制度」など、行政や住民等の尽力により桜並木は復活し、現在では「あだち五色桜の散歩みち」として、約4.4キロメートル(西新井橋から鹿浜橋)の桜堤が荒川を彩っています。
◆国土交通省関東地方整備局荒川下流河川事務所長に、通水後の放水路について伺いました!
質問.1
荒川放水路の役割や、効果が発揮された事例はありますか?
放水路の効果が発揮された直近の事例として、令和元年の台風第19号があります。隅田川氾濫を危惧して12年ぶりに岩淵水門を閉めるほどの台風でしたが、氾濫には至りませんでした。
そのときの荒川の水位と隅田川の堤防の高さを比較すると、岩淵水門を閉めなかった場合、水が隅田川の堤防を超え、都心部で大規模な氾濫が発生していた可能性があることがわかっています。隅田川で受け止めきれない量の水を荒川放水路でも受け入れることが、今後も起こる水害からまちを守るうえで放水路の重要な役割と言えます。
質問.2
水害への課題と対策を教えてください。
一つは令和5年2月から着工している「京成本線荒川橋梁(きょうりょう)架替事業」です。地盤沈下などにより、足立区と葛飾区の間にかかる京成本線の橋梁部分は放水路区間にある堤防の中で最も低くなっています(高低差約3.7メートル)。これを解決するため、京成本線を運行したまま、その上流側にかさ上げした橋梁を新たに設置。最終的には線路をそちらに付け替える工事を、令和19年の完成をめざして進めています。
もう一つは、荒川流域のあらゆる関係者(河川管理者や自治体、企業、住民など)が一丸となって水害対策に取り組む「流域治水」です。住民の皆さんでもできるのは、増水時に荒川に流れ込む水量を減らすことです。例えば、ご家庭で一時的に雨水を溜(た)めるとか、下水道の負担を減らすため、洪水時に水を流さないとか。ほかにも、氾濫の恐れがあるときには適切なタイミングで避難して被害を最小限に抑えることも流域治水の一環です。強靱(きょうじん)で持続可能な地域づくりのため、皆さんも流域治水にご協力をお願いします。
(画像キャプション)
必要堤防高と現況堤防高の差約3.7メートル
質問.3
これからも荒川放水路を守るために住民にお願いしたいことはありますか?
旧荒川流域の人々が度重なる洪水と闘ってきた歴史があり、また、放水路開削時には住民の立ち退きや工事に携わった大勢の方々の尽力によって荒川放水路は造られ、今、洪水から守られる安全なまちが実現しています。この通水100周年という節目は、そういった方々に感謝する良い機会なのかなと思います。そのうえで、これからも放水路を維持していくには、引き続き放水路のことを皆さんに大切に思っていただくことが重要です。
国が何らかの治水事業を進めるとき、皆さんの洪水対策への関心が低くなってしまうと、事業や管理への理解が得られず、これらを進めるのが難しくなってしまいます。そのため、日ごろから荒川放水路に触れ、「流域治水」について考えるなど、引き続き高い関心を持っていただくことが、これからも荒川放水路が機能を発揮し続けることに繋(つな)がります。
国土交通省 関東地方整備局 荒川下流河川事務所
菊田 友弥(きくた ともや)所長(令和6年4月1日着任)
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