■「文化の日」しもつけ風土記の丘資料館
天平の丘公園に紫式部(むらさきしきぶ)の墓と伝えられている五輪塔(ごりんとう)があります。今年は大河ドラマの影響で、資料館に来館された方から、たびたび五輪塔についてお問い合わせをいただきました。お問い合わせに対して伝説だと説明をすると、ほとんどの方ががっかりしてお帰りになります。資料館は正しい歴史の解説をするための施設なので、裏付けのない、あいまいなことをお伝えすることはできません。下野市に飛鳥・奈良時代の遺跡や史跡が無ければ「東の飛鳥」を名乗ることができないのと同じです。
◆「東の飛鳥」の由来
市内の遺跡から、飛鳥・藤原京(ふじわらきょう)で使用されたものと同じ土器が出土しています。また、その時代に大陸から九州大宰(だざいふ)府へ渡って来た人々が飛鳥や藤原京を経由し東国のこの地に定住した文献が残されています。市内の遺跡や下野薬師寺跡(しもつけやくしじあと)、宇都宮市のクリーンパーク茂原の場所にあった遺跡からも、文献を裏付ける資料が出土しています。
このようなデータに裏付けられた本市の歴史を、日本史の学習を始めた小学生をはじめ、市民の皆さんに、「下野市にも1,500年前や1,300年前に大阪や奈良と同じ古墳やお寺がつくられていたんだ。下野市もすごい!」と感じていただくキッカケとして、また、市内の文化財の保護と活用に向けた合言葉として「東の飛鳥」というフレーズが誕生しました。
◆文化財の保護
「東の飛鳥というと、中世の城跡や江戸時代の街道跡、一里塚はその中に入らないの?」というご質問をいただきますが、決してそうではありません。市内には1万数千年前の旧石器時代の遺跡から始まり、縄文・弥生時代~鎌倉・室町・江戸・明治時代~現在に至るさまざまな史跡や遺跡があります。地下に埋もれている遺跡や、開発により発掘調査され、すでになくなってしまった遺跡も多くあります。古墳や城跡の堀や土塁、一里塚のように地上に残され見ることが可能な史跡・遺跡は、東の飛鳥の構成資産として積極的に保護し、壊さないように活用することが望まれます。千年あるいは数百年にわたって保存継承されてきたものを、今私たちの手で壊してしまうことは可能な限り避けねばなりません。野生動物、天然記念物の動植物のように、条件が整わない中での行き過ぎた手当は生態系に影響を及ぼします。文化財保護に必要なのは「悠久の時間の中で残されてきたものを、現代の私たちは先人たちから一時的にお預かりしている」という考えといわれています。以前、史跡の発掘現場にお越しになった方が「私が生きている間にあそこを掘ってくれ、何が出てくるか見たいんだ」とおっしゃっていました。「公費で行われる史跡の調査には、『今』や『私が』という概念はありません」とお答えしました。史跡の保護や調査はさまざまな条件が整ったうえで行われます。下野薬師寺跡も大正10年に史跡の指定を受け約100年が経過していますが、この100年の間で今だからできること、今でもできないこと、しない方が良いこと、100年後でもしない方が良いと思われることなどを、学識経験者の方々を交えてさまざまな検討を経たうえで作業が可能となります。
本市にも日本の古代史を語るうえで重要な国指定の史跡が複数あり、日本を代表する史跡として指定されています。最上級の国史跡は特別史跡であり、国指定重要文化財の中で最も重要とされる資料が国宝となります。人間国宝という言葉を耳にしますがこの言葉は通称で、正式には「重要無形文化財保持者」といいます。保持者は「わざ、技術を体現・体得している者」を指します。このように文化財にはさまざまな種類があり、市(町・村)指定・県指定・国指定などのさまざまな保護の仕組みがあります。
◆11月3日「文化の日」
11月3日の文化の日の制定には、『路傍(ろぼう)の石』の著者で栃木県出身の山本有三氏が深く関わっています。山本氏は昭和23年に参議院文化委員長の役職にあり、戦後の混乱が残る中で文化の復興に尽力された方です。文化財保護法の制定は昭和24年1月の法隆寺金堂壁画(ほうりゅうじこんどうへきが)の焼損が契機であり、昭和25年5月、議員立法により成立しました。この立法へ至る契機も、議員山本有三氏(本名は勇造)と田中耕太郎法学博士(参議院議員・最高裁長官など就任)の話し合いから始まったと文化庁文化財保護部初代事務局長の森田孝氏の論考に記されています。
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