■「東の飛鳥」とは しもつけ風土記の丘資料館
◆奈良県明日香(あすか)村を訪問
昨年度末に坂村市長が文化財を活用したまちづくり、史跡と景観整備などの先進地である奈良県明日香村を訪問させていただき森川村長と面会いたしました。
訪問先の明日香村役場は昨年5月に供用が開始された新しい建物で、1階中央の市民課窓口の脇には文化財課が配置された、まさに古代国家発祥を調査し、保存と活用を進める自治体の象徴的な部局の並びでした。
明日香村は庁舎も含めすべての景観が、「明日香村における歴史的風土の保存及び生活環境の整備等に関する特別措置法」、通称「明日香法」(昭和55年・1980年5月施行)により守られています。森川村長から「公共施設・商業施設、民家を問わず、高さや屋根などの造作にも制限があり、スーパーなども屋上に駐車場を設置することができないような中で飛鳥の景観を守り、史跡・遺跡とそれらを包括する景観が一体となったまちづくりを行っています。」などのお話を伺い、また、明日香法の制定に松下幸之助(まつしたこうのすけ)氏や佐藤栄作(さとうえいさく)首相が深く係わっていることなどのご説明もいただきました。
◆古代国家成立の地 飛鳥
皇極(こうぎょく)4(645)年6月、蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)親子が討たれた政変「大化(たいか)の改新(かいしん)」(現在、教科書では「乙巳(いっし)の変(へん)」も併記)が起きました。その舞台となったのが飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)です。この政変で日本の歴史は大きく変わったと言えるのではないでしょうか。この政変を計画したのが中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智(てんじ)天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)で、彼らは飛鳥寺で行われた蹴鞠(けまり)をきっかけに近づきとなり計画を練ったと『藤氏家伝(とうしかでん)』に記されています。この中臣(藤原(ふじわら))鎌足の子(次男説あり)が不比等(ふひと)で、701年に完成した大宝律令(たいほうりつりょう)編(へん)さんプロジェクトチームでは不比等と共に下しもつけ毛野の朝臣(あそん)古麻呂(こまろ)が編さん事業の中心人物として活躍しました。
また、古麻呂は、持統(じとう)天皇の孫、聖武(しょうむ)天皇の父である文武(もんむ)天皇(683-707年)が崩御(ほうぎょ)された際の「造陵墓司(ぞうみささぎし)」に任命されています。文武陵(もんむりょう)は宮内庁による指定では檜隈安古岡上陵(ひのくまあこのおかのえのみささぎ)(高松塚(たかまつづか)古墳の南側)となっていますが、発掘調査によって高松塚古墳北側の丘の上にある中尾山(なかおやま)古墳が文武陵と考えられています。この古墳は八角形の古墳で巨石を加工した石室が確認されています。巨石でありながら丁寧な加工を施した石材を丘の上まで運び、寺院の基壇のように土を垂直に盛り上げた墳丘(ふんきゅう)を短時間で築造していることからも古麻呂配下の技術力は相当なものであったと想定されます。
当時の豪族は古墳時代以降、中央で代々勢力を有した者と地方で勢力を有した国造(くにのみやつこ)などの子孫に大きく分かれます。大化の改新以降、白村江(はくそんこう)の敗戦(663年)、壬申(じんしん)の乱(672年)などを経て中央集権国家体制が創り上げられる中で、地方の優秀な人材も登用されましたが、古麻呂を含め地方出身者で活躍できた者は数名程度でした。このように古代に都がおかれた飛鳥や奈良と当地域は縁がないと考えられがちですが、約1,400年前から深い関係のある地域だったことがわかっています。下野の地には後に東山道(とうさんどう)や下野薬師寺、下野国府(しもつけこくふ)(栃木市)、上神主(かみこうぬし)・茂原官衙遺跡(もばらかんがいせき)(上三川町)が配置され、中央の政策が直接届く東国の一大拠点であったことが理解できます。
飛鳥時代以降、古代国家成立の役割を担った地域が「東の飛鳥」である当地なのです。
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