■地名の「祇園」と祇園祭
しもつけ風土記の丘資料館
◆祇園祭
この広報紙が皆さんのお手元に届く頃は夏真っ盛りで、京都では祇園祭(ぎおんまつり)(平安時代から続く疫病(えきびょう)を祓(はら)う祭礼がはじまりとされる)の準備が佳境に入っている頃です。
現在でもこの祇園祭をはじめ北野祭(きたのまつり)(北野天満宮(きたのてんまんぐう))など、様々な祭りが御霊(ごりょう)(奈良平安時代の政争で恨みを抱いて亡くなった人の霊)系統の諸社(御霊をお祀りし慰めるために設けられた施設)で「京中祭礼」として行われます。この京中祭礼とは、京外の本社からご神体を遷(うつ)した神輿(みこし)が京内に設けられた御旅所(おたびしょ)を一筆書きのように渡御(とぎょ)し、神輿が通ることでその地域が清められるような行為も含まれています。この「御旅所渡御」は天延(てんえん)2(974)年に行われていることが文書に残っており、他の祭礼も10世紀後半頃までに御霊信仰を背景に京の住人たちが行ったと考えられています。例えば、北野祭は北野天満宮の所在する西京の住人、稲荷祭は左京七条(JR京都駅の北寄りの東側)付近の鍛冶(かじ)や鋳物師(いもじ)などに携わる住人が中心となって行ったと考えられています。
この御霊をお祀りする御霊会が起源となり祇園祭になっていったようです。祇園祭は京都東山区の八坂(やさか)神社(祇園社)の祭礼で明治時代頃までは祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)と呼ばれていました。この祇園祭=山鉾巡行(やまほこじゅんこう)と認識されることもありますが、祭祀・祭礼は八坂神社が、山鉾巡行は各山鉾町が行います。
また、中世や戦国期頃から各町に伝わる様々な山鉾(山車(だし))を飾る美術品と共に山鉾が組み立てられそれを曳(ひ)くこと、さらにこの祭りの最中に各町内の旧家や老舗が保有している美術品などの披露なども行われることから、山鉾に関する行事だけが重要無形文化財に指定されています。この祇園祭は、応仁(おうにん)の乱(らん)で一度中止されましたが、その後町の人たちによって復活したことからその伝統も指定の要因と考えられます。
◆地名の「祇園」
そもそも「祇園」という名称は、平安時代後半以降の神仏習合により八坂神社が比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)系の祇園社に所属することに由来しています。そして祇園社は、祭神の牛頭天王(ごずてんのう)(体は人で頭が牛の神様)が守護する仏教の聖地である祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)に由来します。
下野市内にも「祇園」の地名があります。ニュータウンの町名として平成5年から使われるようになった地名ですが、決してこの地域と縁も所縁(ゆかり)もない地名ではないのです。
現在の自治医科大学附属病院が建設される以前、この場所に「祇園社」の地名を確認することができます。推測となりますが、現在の大学病院にあった祇園社は、東側の低地を挟んださらに東側につくられた薬師寺城との関係があったとも考えられます。この薬師寺城を築城した薬師寺氏は鎌倉期の東国の名族小山氏から分派した氏族で、小山氏などの中世東国武士団は京都大番役(きょうとだいばんやく)などの役目を負い、都に駐屯しました。都や東海・東山道に祀られている八坂神社系の御霊社を分社し、そこからさらに分社したのが薬師寺祇園社とも考えられます。小山氏と同族結城氏も同様に牛頭天王(スサノオノミコト)を祀っています。
また、大学病院の南側に広がるニュータウンを造成する際に行われた発掘調査では、祇園社の南に門前町のような中世の遺跡が確認されています。現在、恐竜のオブジェで知られる諏訪山公園から北上し、さらに大学病院駐車場の西出口に至る南北道路は今から600年以上前から使われている道路で、中世以降「うしみち」と呼ばれていたこともわかっています。日本では古代には疫病が道路を通って入ってくると考えられ、町や村の入り口(辻)などには疫病を防ぐ神様が祀られました。偶然かもしれませんが、古代には病の平癒に関する下野薬師寺が配置され、中世には疫病を封じ込める神を祀った祇園社が自治医科大学附属病院になったのは、歴史の面白いところです。
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