■天下第一武勇之士(てんかだいいちぶゆうのし)源義家(みなもとのよしいえ) しもつけ風土記の丘資料館
日々暑さの続く時期になりました。この季節はパリ五輪に加え、夏の高校野球やインターハイなど、スポーツでも熱戦が繰り広げられています。選手たちは勝利を目指し、そのために日々たゆまぬ努力を重ねていますが、ギリギリの戦いでは時として運に左右される展開も起きるものです。かつては全国各地で、戦いに身を投じる武将たちが、勝利や活躍を願い神社を訪れました。今回は市内の薬師寺(やくしじ)八幡宮(はちまんぐう)で戦勝祈願をしたとされる、源義家について紹介します。
◆義家が下野守となるまで
義家は長暦(ちょうりゃく)3(1039)年、源頼義(みなもとのよりよし)の子として河内国(かわちのくに)(現在の大阪府)に生まれます。後に鎌倉幕府初代将軍となる、源頼朝(みなもとのよりとも)の祖先にあたります。7歳の春に、山城国(やましろのくに)(現在の京都府)の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)で元服したことから「八幡太郎(はちまんたろう)」と称されました。
天喜(てんぎ)4(1056)年8月、義家は父と共に薬師寺八幡宮を訪れ、奥州討伐(おうしゅうとうばつ)(前九年(ぜんくねん)の役)の戦勝祈願を行ったとされています。戦いは苦戦を強いられたこともありましたが、出羽国(でわのくに)(現在の秋田県)の有力豪族である清原氏(きよはらし)の参戦もあり、康平(こうへい)4(1062)年に勝利を収めました。この戦いで朝廷に敵対していた安倍氏(あべし)を倒した功績により、父頼義と共に恩賞を受け、出羽守(でわのかみ)に叙任(じょにん)されます(辞任したともされるが明らかでない)。その後、延久(えんきゅう)2(1070)年に下野守(しもつけのかみ)となりました。
◆関東における源氏勢力の基盤を築く
義家は、父の死後、陸奥守(むつのかみ)、さらには鎮守府将しょう軍(ちんじゅふしょうぐん)となり、陸奥国(むつのくに)(現在の青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県の一部)を預かる大役を得ます。永保(えいほう)3(1083)年に奥州へ入りますが、前九年の役の後、奥州で最大の勢力となっていた清原氏で内部分裂が起き、これを鎮圧するために義家は朝廷の許可を得ずに戦います(後三年(ごさんねん)の役)。事態を収めた義家でしたが、この間、朝廷への貢納(こうのう)ができなかったことや許可なく戦をしたことを咎(とが)められて陸奥守を解任され、さらに朝廷とは無関係の私戦とされたことで、恩賞はおろか戦費も受け取ることができませんでした。義家は苦境に立たされましたが、この戦いで関東の武士たちとの主従関係(しゅじゅうかんけい)ができ、関東を大きな戦力基盤とすることができました。後に頼朝が打倒平家(へいけ)を掲げて成し遂げ、鎌倉幕府創設が成ったのも、義家が築いた、関東における源氏(げんじ)への信頼の高さが一つの要因になったと言えます。
後三年の役から10年後の承徳(じょうとく)2(1098)年、白河法皇(しらかわほうおう)の意向に加え、遅れていた貢納が済んだことでようやく戦いの功績が認められ、正四位下(しょうしいげ)に叙されました。その後も朝廷に仕えますが、嘉承(かしょう)元(1106)年7月に68歳で亡くなりました。義家の死後、息子義親(よしちか)が九州での乱行などの罪で平氏に追討されてしまい、さらには源氏の中でも一族同士の争いが起き、一時弱体化します。しかし玄孫(やしゃご)にあたる頼朝、義経(よしつね)らの活躍で平家を倒し、頼朝が鎌倉幕府を開き武家の頂点に立ちます。
このように義家は、鎌倉幕府(かまくらばくふ)へとつながる源氏勢力の基盤を築き、「天下第一武勇之士」「武士の長者」などと後世に称されました。また、『奥州後三年記(おうしゅうごさんねんき)』には、後三年の役における義家の勇猛果敢(ゆうもうかかん)な戦いぶりや、智略を巡らせた場面、部下への気遣いなど、彼を賛美する内容が多々記されています。その全てを史実と言い切ることはできませんが、関東において源氏の名を高めたことは間違いありません。薬師寺八幡宮で祈願を行うなど縁起を担ぐこともしたようですが、後世に名を残せたのは結局自身の行いが報われたからでしょう。人事を尽くして天命を待つと言いますが、日々の努力や他者への気遣いを忘れずにいた人にこそ、幸運が巡ってくるものかもしれません。
[参考文献]
安田元久著『源義家』 吉川弘文館
関幸彦著『東北の争乱と奥州合戦』 吉川弘文館
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