文字サイズ
自治体の皆さまへ

新・下野市風土記

18/40

栃木県下野市

■虎に翼 しもつけ風土記の丘資料館
現在、放送中の連続テレビ小説『虎に翼』は、日本で初めて女性として弁護士・判事・裁判所長を務めた実在の方をモデルにストーリーが展開されています。

◆「虎に翼を付けて放てり」
元々、この「虎に翼」という言葉は、古代中国の思想家韓非(かんぴ)が書いた『韓非子(かんぴし)』の「難勢(なんぜい)」などに記された言葉で、「虎のために翼を伝えるなかれ(訳:もともと強い虎に翼を与えるようなことはするな)」と否定的な言葉として使われることが多いようです。
この「虎に翼を付けて放てり」という言葉が、古代の日本でも使われており、今から千数百年前の奈良時代の養老(ようろう)4(720)年に完成したとされる『日本書紀』に出てきます。その場面は、天智(てんじ)天皇が亡くなった年の西暦671年の記事になります。この671年の翌年の672年は十干十二支では壬申(じんしん)の年で、古代国内最大の内乱と言われる壬申の乱が起きた年です。『日本書記』は、往々にして一巻の中で一人ないし複数の王について記述しますが、巻第二十八は大海人皇子(おおあまのおおじ)(天武(てんむ))と近江朝廷(おうみちょうてい)の戦いである壬申の乱の経過の1年だけを取り上げています。そのため天武帝については、この二十八と二十九巻の二巻に記述されるという異例の事態となっています。
この壬申の乱の原因は、天智天皇の皇位継承問題です。天智天皇は天智11年冬の10月に病に倒れ政務を執ることができなくなると、弟の大海人皇子をお呼びになり、皇位をこの大海人皇子に譲ろうとしました。しかし、不穏な策略を予知した大海人皇子は、後のことは倭姫大后(やまとのひめおおきさき)と天智天皇の子である大友皇子(おおとものおうじ)に託すよう進言、自らは出家して吉野(現在の奈良県)に隠遁(いんとん)することを願い出て吉野に向かいます。大海人皇子を吉野に向かわせてしまったことを重臣たちは「虎に翼を付けて放てり」と心配しましたが、結果的にこれが大乱の引き金になってしまいました。
この「虎に翼を付けて放てり」については歴史学者の間で意見が分かれています。一つは「いよいよ勢いを増すことのたとえとする」という意見です。もう一つは「そもそも『韓非子』では『不肖者(ふしょうもの)が権勢を用いると天下が乱れる』という意味であり、天武紀の中で天武天皇を不肖者と表現するとは考えにくいため、解釈が違うのではないか」という意見です。
大海人皇子は吉野に追手が迫ると吉野を抜け出し、東国に向かいます。この時目指した東国は尾張国(おわりのくに)(現在の愛知県周辺)、美濃国(みののくに)(現在の岐阜県周辺)で、尾張国は東海道、美濃国は東山道がそれぞれ経由する都と地方を繋ぐ重要な地域でした。そのため、美濃国にも尾張国にも古墳時代以降の地域を治める地方豪族が複数存在しました。

◆壬申の乱と下野薬師寺
現在、本市と友好都市協定を結んでいる岐阜県本巣(もとす)市には、古墳時代の3世紀から飛鳥時代の7世紀まで約400年にわたって300基近い古墳がつくられた船来山(ふねきやま)古墳群があります。この古墳群は前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)や前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)、小型の円墳(えんぷん)で構成されており、馬具や出土遺物から渡来(とらい)系の人々と関係のある古墳群と想定されています。また、しもつけ古墳群と下野薬師寺のように、この船来山古墳群のそばには7世紀になると飛鳥時代の寺院である席田廃寺(むしろだはいじ)が建立されていることから、『古事記』に記される「本巣国造(もとすこくぞう)」との関係も想定されています。この席田廃寺に使用された瓦は奈良県明日香(あすか)村に所在する川原寺(かわらでら)に使用された瓦と同じデザインで川原寺系と呼ばれ、下野薬師寺もこの川原寺系のデザインを採用しています。研究者の中には、美濃の古代寺院の中でこの川原寺系の瓦を使用したのは壬申の乱で手柄を立てた豪族への論功行賞(ろんこうこうしょう)と寺院建立の援助ではないか、という説を唱える方もいます。下野薬師寺も含め、今後の研究によりその成否が分かるときが来るかもしれません。

参考:岐阜県立博物館2017 特別展「壬申の乱の時代-美濃国・飛騨国の誕生に迫る」

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU