◆那須町と近現代の人々 vol.34
井上孝三郎(1864-1945)
10月号は、旧芦野町で教員を務めた井上孝三郎を紹介します。
井上は、元治元年に寺宿村(両郷)の浄法寺健蔵・みつの次男として生まれました。明治16年3月、茨城県小学初等科教員検定に合格すると、同年4月から、久慈郡槇野地小学校(茨城県大子町・現在閉校し「おやき学校」として校舎が活用されている)訓導となり、教師生活をスタートさせます。同18年に、交代寄合旗本芦野氏旧臣・井上男七郎の娘婿となり家督を相続すると、同20年から大田原尋常小学校、同21年10月からは芦野尋常小学校で勤務しました。井上が芦野尋常小学校に異動した年の12月には、現在の御殿山駐車場に同校の洋風校舎が新築され、新築記念として勝海舟の書「志在千里」等が寄贈されました。
明治36年3月、井上は16年務めた芦野尋常小学校を離れると、富岡尋常小学校訓導兼校長として着任しました。(2代目校長)井上は富岡地区の住民との関係も良好で、同校勤続15年の時には、富岡地区の住民から銀杯を贈られています。大正9年、長年教育に従事したことをうけ勲八等瑞宝章を受章し、栃木県知事からは硯箱を贈呈されました。翌10年には富岡地区の住民と協力して、現在の富岡自治公民館の地に小学校を新築移転させると、同12年に退職しました。退職後も昭和3年から芦野町会議員を務めるなど、教育、政治の分野で長年芦野町を支えました。この功績を後世に伝えようと、昭和14年に富岡尋常小学校校舎敷地内に「謝恩碑」が建立され、現在もその石碑は遺され井上の功績を伝えています。
井上は人柄が温厚だったようで、「清らかに香る梅の花」のような人だったと称されています。また俳句が趣味で、蘆華吟社に属し、二松、江山樓、有三、戯柳などの俳号で活躍しました。明治42年に刊行された『現今俳家人名辞書』には「春雨や古にし奈良の物静」が、大正3年刊行の『現代全国俳人名簿』には「猪突そが敗因となり歌かるた」が収録されています。
井上が行った明治〜大正期の教育活動が、現在の那須町の教育の礎になっているといえるでしょう。
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